念願かなって、沖縄のカープキャンプ地コザしんきんスタジアムへ行ってきました。
内野守備練習では、定位置にレギュラー争いをする複数選手が交替で守備をする。コーチがノックする打球音や捕球音などが心地よく響く。田中が三遊間を抜けるようなライナー性のゴロを横っ飛びで捕球し矢のような送球をした時には、選手からもスランドのファンからも拍手が起きていた。エラーがあると、選手達から異様な叫び声のような冷やかしがおきる。ランチ特打らしい時間帯に、鈴木誠也、メヒヤ、西川が交替で打席に立ち、カウントや打球で一打席勝負で交代する。投手は野村と中崎が三人の打者ごとに交代する。どちらかというとこの日は投手の出来が良く、誠也も豪快な打球は少なかった。メヒアは芯をとらえたあたりがいくつかあった。気がかりは西川のあたりがいまいちだった。捕手としては坂倉と磯村がマスクをかぶっていたが會澤は打者に専任していた。
坂倉もそうだが、今年こそ1軍で活躍をめざす投手では戸田隆矢、高橋昴也、高橋樹也やアドゥ誠 、野手では庄司隼人、高橋大樹、野間駿祥、美間優規、今年にかける堂林などもいる。捕手も磯村が守備特訓などもしてて、白濱もいて、新人の中村奨成はなかなか一軍枠は無理か。いずれにしても、補強がないカープはチーム内競争が激しくなるなかで戦力強化となるだろう。
たまたま宿泊したホテルが実はカープ宿舎と同じだったのだが、カミさんはエレベーターで野村投手が隅で遠慮がちに立っている姿が可愛かったと盛んにいっていた。また別メニュー調整中のバチスタと名物通訳の人も乗り合わせたが本当に大きな体に圧倒された。
練習メニューは球場内にも掲示さるのだが、バッティング練習は3か所のゲージを使うが、1班3人の班編成で回るのだが、その順番待ちの時にもトスやロングティーやるとか、離塁と盗塁練習と休む間もなく身体を動かし続けていた。打球音が飛び交い、目の前に選手たちが躍動している姿を見ることができて本当に幸せな時間だ。
少し驚いたのはカープファンは球場やホテルで多く出待ちをしているが意外にも大人しく静かで、そっと見守ってるという雰囲気だった。関東からも子ども結構来ていたが学校はどうしたのだろう。
観光では、定番の美ら海水族館や古宇利島、今帰仁定跡、首里城を巡ってきた。
【ひめゆり部隊も配置された沖縄陸軍病院第三外科壕跡 資料館には復元した壕もあるがとても野戦病院ともいえる代物ではなかった】
車で走行中、突然金属音が聞こえて、見えたり見えなかったりするが戦闘機が始終飛び交っているのが、いかにも沖縄だ。
小学校や保育園への米軍器材落下事故があいついだ時に、無知で心無い人たちが、「でっち上げじゃないの」「基地の側に学校や保育園などつくるんじゃねーよ」などの中傷の電話などをかけてきたというが、そもそも米軍が狭い沖縄の平地のいいところを接収して沖縄人たちが追い出されただけだ。普天間基地のなかに、未だに墓が残っていて、特別な許可を得て墓参りしなければならない人たちもいるほどだ。
また、南部戦績巡りでひめゆりの塔とその記念館、摩文仁の丘とその周辺は国立墓苑など平和祈念公園として整備され、各県ごとの慰霊碑などが並んでいる。
ひめゆり学徒隊の悲劇だけでなく、沖縄戦のちょっとした経過をあちこちでで知ることができるのだが、第二次世界大戦の詳細な経過をみるまでもなく、1945年4月1日嘉手納沖を真っ黒に染めるほどの軍艦の群れ眼の前にして、さらに同日つきに沖縄本島に上陸したときにすくなくとも降伏すべき時が来ていたのだ。この段階で終わっていれば沖縄住民だけでなく、多くの奥民の被害は激減で来ていた筈だ。
まして、5月中旬には首里城まで迫られ、そこでも玉砕や降伏でもなく南部後退を命令し、さらに沖縄住民の被害が拡大した。米軍からの降伏勧告もだされたが、司令部は戦争継続を指示し続けるばかりだった。6月22日から23日にはすべての現地司令部も自決や戦死をし、沖縄戦は事実上決着がついたのだが、その段階でも政府や軍は戦争継続をして、広島や長崎の被害を受けたのちにようやく戦争が終わった。
沖縄に来ることで、本土決戦の捨て石とされた沖縄のことだけでなくつくづく日本の歴史をいやというほど思い知らされる。
戦争開始や遂行の責任もあるが、終えることの決断もつかなかった人たち(あえて漠と表現するが)の責任も、本当にきちんとしなければならない。
最終日、国際通りのホテルに泊まり食事後、少し路地に入った民謡ライブのお店にいった。観光客よりも圧倒的に地元の人たちでいっぱいのお店。職場の関係者で来てるというのだが、グループの境もわからないほど誰彼となく声をかけて人懐っこい。私たちにも盛んに声をかけてくるし、写真も撮る。途中は彼らだけの踊りだったが、こうしたお店の定番「カチャーシ」という、いわば「乱舞」ともいう状態に陥る。
車の運転マナーが悪くて、ヒヤリとしたことも道を尋ねた時に案内がたいがいいい加減で、腹が立つようなことも多かったが、結局、大ざっぱで拘らない人たちで、憎めない。こういう場に馴染みのないカミさんも結構上機嫌でホテルに戻った。
【民謡ライブステージ】