遂に始まった これが終活か?! | 昼は会計、夜は「お会計!」

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先週末自宅に戻ったら、かみさんがやおら段ボール箱をドンとおいた。この中のものを必要なもの不要なものを整理してくれという。現金書留と手紙、写真のが主で、他に書類のようなものがある。

 まずは、何気に見はじめたら、いやいや、突然50年以上も前の高校や中学時代、時には小学生時代の交友関係などがフラッシュバックするかと思えば、全然な名前に記憶がない、文面読んでも何も思い出せない、すごい不全感というものを感じるものもある。もちろん、一番多かったのがお袋だ。現金書留だけでなく、普通の封書、はがきなどなどよくもこんなにこまめに手紙を書いてくれたものだ。しかも、圧倒的には、お金の使い方や洗濯など細々したことへの説教やお小言の羅列。こんなにもお袋を煩わし、怒らせることが多かったのかと、あらためて申しわけなかった、と墓参りにでも行かなければと思ったほど。また、名前には記憶もあるのだが、なぜ、この人からこんなに何通も来ていたのか、そんな交友関係だったのか不思議な人もいる。それに、だとしたら、途中の同窓会の記憶も薄いが、還暦同窓会や古稀同窓会であった時など、もう少しちゃんとしたあいさつや会話をしていなければならないのに、何とも失礼で薄情な感じすら与えてはいなったか、と後悔の念すら感じる。大量の手紙を一通り目を通しながら、だんだん気が滅入ってきた。もちろん、人生などやり返せないし・・・・。で、一方で、突然、あることに気がついた。これ以外に手紙などはないのかと聞いたら、多分、何回かの引っ越しのたびに処分してきたので、残っているのはこれだけじゃないかという。屋根裏収納庫からたまたま見つけたのだという。しかし、その宛先住所からみて、全部、大学に入学・上京して2年の間のものだ。その頃は、世田谷のアパートに住んでいて、その後はいろいろあったが、社会人になって暮らしていた時のものまで、一切無かったのだ。なので、凝縮して2年間なのに、それなりに大量の手紙類に驚く。またその時期に夏休み等で帰省中に実家へ来たものばかりだった。あの頃は、携帯電話もメールもないし、学生では固定電話もないので、すべて郵便しかなかったので、帰省中など特に速達のやり取りをしていたようだ。

 しかし、限定した2年間だけタイムスリップしたような感覚が、何となく気が滅入り、不思議だが食欲までなくなっていった。日曜日は食欲もないので飲みに行こうと駅前の居酒屋へ行った。

 

  2年間の限定したもの印象に取りつかれていたが、その後社会人となり、結婚、子育て、帰省などを通じて、親と孫である子どもたちとの交流も含めて、そんなに親孝行できたとは思わないが、あの学生時代のような思いからは脱却できて少しは安心させたのではないかと、子どもたちも祖父祖母に優しく接してくれた。先日、小学1年生の孫が一人滞在中に夜に寂しがって予定変更して早めに帰したが、うちのこどもなど小学1年生の時に一人で広島まで行ったり、保育園児の弟と二人で行って長い夏休みを田舎で過ごしたものだ(下の子にお袋も手こずったらしく、帰りに『もっと大きくなったらおいで』といわれたという)。その頃の我が家は正月はスキー場で過ごすし、夏休みは伊豆へ行くという生活だったので、定期的な帰省がなく寂しい思いをさせたかもしれないとは常々思っていたが、親父がなくなる時も家族全員が広島に駆け付けたし、お袋が特養ホームにいる時にも、家族全員で見舞ったりできた。

 お袋には、そんなんで、勘弁して貰えるかどうかわからないが、いずにしても墓の処理の事もあるので今年は墓参りに帰ろう。

 ただ、友だち関係は、どうしたものか、限局した2年間のものしかないので、その後、どのような関係になっていったのか、少なくとも圧倒的にその後の何らかの関係が続いたという記憶もないので、そこが、何か、失礼なことをしたのかもしれなという不安感がある、かといって、最近は、個人情報管理がうるさいので同窓会をやっても住所録等は公開されないので、問い合わせの手紙を出すことすら困難だ。

 一方、手紙類が大学2年生までのものに限局していたのと関連してだろう、田舎から持ち込んだ各級卒業アルバムや高校時代の写真がごっそり出てきた。当時、新聞部にいたことや、自宅で写真の現像引き伸ばしができたので、規定サイズではない変形の白黒写真がたくさんある。あと、まとまったものとして、親父と二人でアメリカ旅行に行ったときのネガとポジなどまとめてごっそり出てきた。たぶん、行くことにいい顔をしていなかったカミさんの手前、きっと広げてみる機会もなかったであろうことが予測できる。これでは、ネガにも焼き増しを指示した痕跡がないので親父にも送っていないし、その後、親父が何回も自宅に来たのだが、一度も見せていなったのかと思うと、可哀想なことをしたものだ。

 カミさんは写真は捨てるな、アルバムに整理するよう言うのだが、今さら残してもしょうがないので、連絡がつく人にはお送りしようかと思う。相手は今さらと迷惑かも知れないが、せめてもの罪滅ぼしのような気分だ。

 自分の場合は、整理し残された段ボールが1箱しかなかったのだが、それでもこれだけ心揺さぶられ、これからいくらかの時間をかけて整理していくことになるだろう。これが、終活の始まりなのかと思う(本当は、屋根裏収納庫は子どもたちの子ども時代の玩具やらぎっしり詰まって3階が重すぎて危ないから、それらを片付けて欲しいと思っていたのだが、自分が長生きするから終活のテンポが違うらしい)。

 いずれにしても、ついに、終活という時期が来たのか。確かに、正月休みに、帰省してきた息子に、12月に血管外科を受診した結果で「どうやら、ここ1~2年で何とかなることはなさそうだから」と安心させるつもりで話したら、「そんな、医者が生命の保証までした訳じゃないだろう。いつ逝ってもおかしくないととっくに覚悟しているから」とばっさり言われてしまった。カミさんにも同じようなことを言っているという。

 今後、どんな人生が待っているかわからないが、息子たちが困らないようにすることは心がけて行くしかない。