いつか書こうと思ってたことだが、また不可思議な自動車事故が相次いだ。ここ何年かの間にコンビニや駐車場など自動車が突っ込んだ事故がおきて、多くの場合ブレーキとアクセルを間違えたという報道がされ、その多くが高齢者だという。そして、もともと高齢者の免許更新が厳しくなっているときくのにさらに厳しくしろとか、免許証を返上させろと喧しい。
こうした風潮に何か違和感をずーと持ってきた。何十年も前から車社会となっているアメリカの報道で、90歳超えても普通に車を運転しているアメリカの高齢者。それもそのはず、車社会では車が運転できないとそれは生活ができなくなることをさしているというのだ。そしてアメリカで高齢者がやたらとコンビニやスーパーに突っ込んだというニュースはあまりきかない。
それが、私自身が久しぶりに車を運転する生活に戻って感じたことがある。その前も中古車を乗っていたので、その時の生産年はもう記憶にないが、今回も中古車だけど、それでもいくつもの違いがある。まず、サイドブレーキと呼んでいたパーキングブレーキが足踏み式になっていること、マニュアル車はほとんど無くオートマ全盛時代だ。私が気がついたのは、日本が本格的モータリゼーション時代を迎えてから長年、足ペダルによるアクセルとブレーキ、サイドブレーキ、ステアリング回りで操作するのがウインカーとワイパー操作、ホーンくらいだった。実はこの配置・位置こそ長年車を運転してきた人たちに染みついていたのではないかと思う。私ももう何年も前にレンタカーを借りたときにサイドブレーキがなく足踏み式パーキングブレーキの事を知らなくて、出ようとしたら相当踏み込んでやっと出たが、すぐ何やら臭いがしてパーキングブレーキを外してないことに気がついたこともあった。その後も、パーキングのことを解っていて運転途中で休憩したあと、出るときにアクセル踏み込んでも出ない時にとっさにパーキングを思い出して、パーキングを踏んだ瞬間にパット飛び出すという危ない目にも遭ったこともある。昨年買った車も初期の頃、慣れないで同じような目に遭ったこともある。
私は、「ブレーキとアクセル」に加えて足踏み式パーキングブレーキというこの足を使うものが3点あることを無くすことが先決だと思う。もともとマニュアル車を運転した頃は、アクセル、ブレーキ、クラッチと3点を両足を使って操作していた。それはそれで高等技術が必要だったのだが、オートマに変更されてからは、逆に右足だけを使って、ブレーキとアクセルだけを操作する。つまり、踏み換えるという操作だけだったものに、パーキングまで入ったことから、(多分私が思うには)結果的に両足を使うということが復活した結果、足操作が混乱し始めたのではないかと想像している。
従って、まずブレーキとアクセルの足踏みというのを基本的に変えて、例えばアクセルは横方向へスライドしないと加速しない、ブレーキは踏み込むというような分け方をすることで人間工学的には余計な混乱をしないで済むのではなかろうか。もちろん足踏み式パーキングというのは手動のサイドブレーキ方式に戻すことだ。
私の親父も80歳を超えてからも車とバイクの運転をしていた人で今日のような心配ではなくて一般的な瞬発的な判断力等の衰えで運転を止めるよう随分回りから言われ、まず車を止めてしばらくはバイクも乗っていたようだ。で、やたら最近高齢者の事故が強調されているが、実は、書いてきたような自動車の構造の歴史を振り返ると、今の高齢者世代はまさに日本のモータリゼーションの発展の途上で様々な変更を許容してきた世代ではないかと思う。
だからこそ、起きる瞬間的な勘違いや判断ミス、操作ミスが発生している要因はかなりあるように思う。例えば、オートマ車しか知らない世代や足踏み式パーキングブレーキしか知らない世代などなどは慣れ方が違っているだけだ。従って、必ずしも高齢者だけでなく、中年なども自分の車運転歴との関係で先に述べたような事故は起きているはずだし、今後もっと起きてきても不思議ではないように思う。
先に書いたような足の使い方を変えて踏み込み式はブレーキのみ、アクセルは横スライドのみなどに変更すること、ついでに両方の操作は同時にはできない、などの構造的変更を加えることはそんな生産工程的にはそんなに費用がかさむことではないだろう。これらは、飛行機事故のなかでのヒューマンエラーを防止していくプロセスでは何十年もの歴史がある。例えば、着陸態勢に入らない限り車輪が降りないようにする、車輪が降りていないと最終着陸には入れないなどが有名だ。(フェールセーフ構造という三重にも及ぶ安全設計でも、ボーイングのジャンボ機は、御巣鷹山事故では、三重の操縦系が吹っ飛んで操縦不能になった) 車の安全性は今、自動ブレーキや自動運転に向かっているが、それはそれとして、もっと普通に車と一体的な生活をしなければならない時代に相応しい、構造上の弱点こそまず解決すべきではなかろうか。
高齢者が運転をする歴史はアメリカの方が長いわけでその歴史がどうであったのか、日本よりも事故率が低いのか実は同程度に発生しているのかなどもきちんと関係者解明を待ちたい。今問題になっている日本製エアーバッグで大変な損害賠償が起きているが、私が指摘したような車の構造上の問題に着手していないと訴訟社会のアメリカから何を言われ出すか解らない。日本の自動車業界の味方として言っているのではなく、世界一と言われる生産力や経済力を安全のために使わないと、おそらく一国のメーカーだけでは対応できない損害賠償請求が起こされる可能性はあると思う。
もう一つは、高齢者問題一般の問題。例えば、認知症の発生状況、徘徊問題、寝たきり問題などの国際比較だ。昔、勤務していた病院でデンマークの医療や厚生省(当時のデンマークの)関係者との交流があったが向こうでは寝たきりが日本のようには居ないのだという話しにビックリしたことがある。詳細は忘れたが、(もっと基本となる政策的なことはあったのだろうが)結果として、動ける能力を活かすという補助器具・用品が発展していると言うことで看護師を留学させて、日本では珍しい補助器具センターまで設置することになった。一方、日本では90歳を超えた人が徘徊で電車事故を起こしJRから損害賠償請求された件が、地裁・高裁を経て最高裁までいったことで話題になっている。高裁判決では86歳の奥様に監督責任があるとして賠償目依頼が出たという。認知症の発生や徘徊などがすべて個人の責任で処理すべき事なのだろうか。それでなくても安倍政権は医療費削減で在宅医療への転換を推し進め、返す刀で介護も施設介護を大幅に制限し在宅介護へ変えようとしている(特養は介護度3以上でないと申し込みできない。介護度の低い人は介護保険サービスから外され自治体の任意に任された)。こうした医療や介護の切り捨て政策は、いわば国家として介護難民を生み出すともいわれている。
少し横にそれたが、現象としての高齢者の自動車事故と高齢化社会の関係が本当にそうなのか、日本の高齢者が置かれている社会的な位置などと無関係ではないような気がする。少なくともモータリゼーション行き着くところで高齢者運転は不可避だったはずなのだ。
そんな時代だから、元気で生きている人が自らと家族のために車を運転することが生活の自立自助に大きな役割をはたしているのを、もし取り上げるとしたら、社会は相当の覚悟をしてその代償をしなければならないだろう。コメンテーターがコミュニティバスの運行など気軽に言っているが、そうしたことも容易ではなく社会的的負担のい大きさをめぐり世代間賛否を呼ぶだろうし、そんなことの対応もさることながら、高齢者や誰もが安全安心できるような車造りはとっても普遍的な課題だろう。必ずしも自動化の方向ばかりではなかろう。