髙田都「あい 永遠に在り」(時代小説文庫・角川春樹事務所)を読む | 昼は会計、夜は「お会計!」

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あい
Book データベースより
齢73歳にして、北海道開拓を志した医師・関寛斎。藩医師、戊辰戦争における野戦病院での功績など、これまでの地位や名誉を捨ててまでも彼は、北の大地を目指した。そんな夫を傍らで支え続けた妻・あい。幕末から明治へと激動の時代を生き、波乱の生涯を送ったふたりの育んだ愛のかたちとは―。妻・あいの視点から描く、歴史上に実在した知られざる傑物の姿とは―。愛することの意味を問う感動の物語。            
 *** 引用終わり
「みをつくし料理帖」の大連載ですっかり髙田郁さんのファンになりその後「銀二貫」が出版されドラマ化もされたが、この「あい」は2013年単行本が出たのは知ってたが文庫化を待ってた。そしてようやく今年2月に文庫が出た。420Pと結構分厚い。それを「逢」「藍」「哀」「愛」と名付けた四章に分けてその章のテーマとしている。Bookデータベースの紹介にあるように関寛斎という歴史上の人物に寄り添った夫人・あいを主人公にしている。もちろん貧農に育った子が江戸時代に苦労の末医師になり最後は北海道開拓に貢献するという話だがそこが強調されすぎた紹介だ。
髙田郁さんの文章は江戸時代の寒村の貧しい百姓の暮らしの中にあっても学問を大切にする家族がいた事、その貧しさの経験が人を支え、矜恃としていたことなどが全編を貫いている。それが医師であったのでまして、百姓上がりが徳島藩の御典医にまで上り詰めてなお無差別平等の医療や人生観を頑迷に持ち続けていたことこそ特筆すべきことだと思う。
幕末期直前から始まるが、土地に恵まれない上総の寒村。人びとは容赦呵責のない年貢の取り立てに喘ぎ百姓の暮らしは悲惨だった。一方でそれは土地や土にまみれることが何よりも人として安心感を与えられる農民の生活・日々であること、貧しさの中でも家族や地域の相互の助け合いの中で学んでいた人びとがいたことを書いている。
関寛斎の養父・俊輔は、農村地帯で私塾を開いて貧しい人びとからは束脩(授業料)を取らないで学問を教えていた。関寛斎(当時は豊太郎後に佐倉順天堂に入塾するときに改名)は4歳の時に実母・幸子を亡くし、いったんは祖父母のもとに預けられたが、幸子の姉・年子が引取り、のちに俊輔も正式に養子として認めて夫妻に育てられた。この義父の正義感あふれる一徹さ頑固さとそれを一見冷たいが奥底にある優しさを秘める義母のもとてで、関寛斎は育ち、佐倉順天堂へ入塾する事になる。
当時、百姓の子が医師になろうなど誰も考えられないしできなかったのだが、親戚中から工面したお金でなんとか入塾するが、年6両を支払えない寛斎は玄関脇の一室に寝起きし屋敷内の清掃から師の家族の世話まで一手に引き受け、その合間に医学の手ほどきを受けたという。師・佐藤泰然(現順天堂大学及び順天堂医院の初代堂主)の子供を背負って用足しをするなど、『乞食寛斎』ともよばれ尋常では無いほどの苦労をしたという。後日、あいに「強い決意で医師になった」というセリフがでる。
 その関寛斎と親同士が決めた縁で結婚することになるあいが不思議な縁で結ばれていたこと、また今の順天堂創立につながる当時の佐倉順天堂の恩師佐藤泰然など順天堂関係者の厚い仲間意識の支えで、若い二人の夫婦生活が始まる。せっかく医師になって故郷に戻り医院を開業したもののあまりにも貧しすぎて誰も診療には来なかった。そんな中、順天堂からの要請で銚子で開業する事になり夫婦は移住する。
 ここで夫婦に多大な影響を与える後のヤマサ醤油の創業家の濱口梧陵に巡り会うことになる。江戸末期の豪商が間接的に日本の医療近代化の初期にこんなにも大きな役割を発揮していたとは全く知らなかった。多分医学史研究の世界でもかなりコアな研究者しか知らないことではなかろうか。
もちろん、前提として関寛斎と濱口梧陵が人生観の上でお互いに尊敬し合えるものがあることを見抜いた関係であったことが何よりの奇跡ではあるが。
何よりも医療観を支える人間観というか世界観だ。自分のためにとかいう思想ではなく公とか社会のために尽くすこと、人間としての平等に関する意識は江戸時代としてかなりのレベルと思う。後半の北海道開拓に乗り出した際に、土人保護法のなのもとにアイヌの人たちを開拓者たたい内地から行った人が差別的言辞や行動をしていることに憤慨する関寛斎夫婦が描かれている。当時としてはかなり感度が高い。
 百姓上がりの関寛斎のそうした人間性を承知の上で、蘭方医をより学ぶために長崎留学を濱口梧陵がすすめるのだが、「他人のお世話になってまで勉学するわけにはいかない」という寛斎の間に入って、あいが取りなし、結局1年の約束で長崎へ行く。それは、濱口が、「寛斎のためで無い、銚子のため嫌、日本の医療のため」だと話すことにあいが打たれ、夫を説得した。長崎ではヨハネス・ポンペに師事し、1年で戻ってきた寛斎に、濱口は本格的には、あと数年は長崎へ行って欲しい、すべて濱口家で面倒みるからと諭すが、ますます意固地になって拒否する寛斎。またまたあいがとりなそうとするが、潔癖性である寛斎はこれ以上濱口家やみんなにすがるわけにはいかないと再度の長崎留学を許諾できない。この寛斎の一徹さというか、これがずーと彼の人生をややこしくもしているだが、それを義父・俊輔を操った義母・年子のようにあいも夫から「母(年子)に似てきた」といわれるほど上手に対応して補佐していくのである。最後に、北海道に開拓に行くと決めた寛斎は、それまで苦労をかけたあいを連れて行くわけにはいかない、ようやく老後の子供や孫に囲まれての生活を楽しませてやりたいという寛斎の固い決意を、またもや愛は、「同行します」の一言で一緒に北海道に向かうのだ。あいは、病気のため結局、メインの開拓地には行けないまま、仮住まいの地で約2年で命を落とすことになる。小説はそこで終わるのだが、Wikipedeaによれば、寛斎は私財をなげうった開拓の方向性を周りと共有できず自死してしまうと書かれている。どこまでいって都に人だったのかと思う。
 ただ、一人の医師としてみると、江戸時代に百姓から医者を目指し、当時としては最新の佐倉順天堂、長崎のポンペのもとでの学問研究をしながら、若い後継者を作ることに熱心だったこと。銚子の開業医から徳島藩の御殿医を受けたときに、士分が欲しかったのかなど批判もあったが、蘭方医を評価し、若い医師を育てて欲しいという藩主の主旨に応えたいと徳島では、多くの弟子を迎えて育てた。
 また、「養生(健康管理と予防)、運動(積極的鍛練)、医療(適切な科学的対処)の総合性を重視した、現代保健思想にも通ずるものといえる。彼の『世を済す』社会貢献は、医療を超えて維新後の旧武士たちへの救済、各戦役時の傷病兵慰問など多岐にわたった。その極は晩年、全資産を投じて理想の『農牧村落を興す』北海道開拓事業への転身であった。」(Wikipediaより) 社会的な医療を見る視点や疫学的方法論など江戸末期から活躍した医師として抜群のもノだったと思う。まだ幕江戸末期の時に、コレラが猛威を振る始めたときに濱口梧陵の先見の明と寛斎らの疫学的方法を使ってのコレラ予防で銚子や上総地域を守ったなど特筆すべき事が多い。
 寛斎のことが多くなったが、この小説は髙田郁が描く妻・あいの視線で描かれている。髙田さんが描く女性らしく感性が豊かでたおやかな人としてかかれる。親が決めた結婚だったが、縁ある結婚だったためにあいも人知れず淡い心を持っていた。そんな始まりなのだが、10人以上と当時としても子だくさんだが、また多くの子を失う。その悲しみにくれる場面が悲しい。小さい時の死もあれば39歳にもなった娘の病死などいくつもの子供達の死を迎えなければならないのが時代の反映なのか。あいは、それら一つひとつ乗り越えながら生きていくすべをみにつけていく。それなりに財をなしたが子供達ももう立派に成人になっている親の財産など頼るような子供はいないと確信し、家屋敷からすべてを処分する準備を着々と進め、北海道開拓で余生を捧げるために旅立っていく。
 なんとも壮大で、幕末から明治へと時代が移りゆく中、一つの夫婦・家庭が世の中に翻弄されたり、また干ばつや水害、銚子から徳島へ引っ越すときに全家財・財産を積んだ船が難破してすべてを失ったり、子供の死など、読者はあいという女の一生にどっぷりつきあう感じで、大変長い長編小説だがいっきに、そして所々感動の涙を流しながら読むことになる。私も電車の中で思わず涙が出てこまったことがあった。
 評判の書がようやく文庫化されたので是非おすすめの本だ。