今までは患者のプライバシーなので公的なところでは言ってこなかったが、私の仕事を通じたの思い出がある。
しかし、それまでは、広島を舞台にしたヤクザの抗争物で有名になられた人なので、広島出身者としてのは、すぐその話になるので、役者本人にもいい感情は持っていなかった。映画も一本も観ていなかった。しかし家族ぐるみで診療所に通われるようになり、その後その診療所を辞めてからも注目していたら、ずいぶん社会的な発言もされるようになっていた。長男の薫さんを、31歳kらいで亡くされてからは飛騨の山奥へ引っ込まれていたという話も聞いた。 私が30歳代になって初めて医療機関の管理者として、いきなり当時他法人であった杉並区の診療所の事務長なった頃のことだ。ある日、区内の親しい診療所からの依頼で菅原文太さんの自宅へ往診して欲しいとのことだった。そこは診療体制が悪くて、常勤所長がいる私のところへ依頼に来たということだ。その時、一回きりのはずだったのだが、たまたま気に入っていただいたようで、以来普通に受診されるようになった。最初の時も往診が終わってからマネージャーさんが診療所へ薬を取りに来られた時に高級ウイスキーやら文太さんのカレンダーなど持ってこられたが、全部お断りした。また文太さんは、当時でももう数少ない木造モルタル作りで筑後何十年もたった汚い診療所の待合室でお年寄りたちと並んで、いつもを静かに読まれていた。患者さんもサインなどお願いしようとするのを私は、ここはまったくのプライバシーの場なのでと患者さん達を制した。看護師の中でも、サインを貰いたいのに事務長は固いよという人もいたが、文太さんはいつも無口で待たれていた。当時、所長は私が居た病院から派遣されてきた先生で看護師たちもみんなやる気を出していたときだった。そんなことも気にいって貰えたのか、奥様や三人のお子さんまで診療所に通うこととなられた。子どもさんもどの子も一人で来るようになってもしつけもよくて、しかっりしているねと職員も感心していた。
その診療所が管理者生活が始まりまた法人の事務系幹部としての歩みを始めたところでの文太さんの件は、自分にとってもそんな時期の貴重で誇りに思う思い出だ。
その診療所が管理者生活が始まりまた法人の事務系幹部としての歩みを始めたところでの文太さんの件は、自分にとってもそんな時期の貴重で誇りに思う思い出だ。
平和や原発のこと、政治のことも、ずいぶん発言され、有機農業のことでは自ら実践されていた。宮城県出身者として大震災にも随分と影響を受けられ、俳優引退のきっかけになったようなこともきいていた。先の沖縄県知事選挙では応援弁士として宣伝カーの上に立たれていた。暴力映画を撮ってきた自分が言うのも何ですが、戦争だけはダメです、と戦争をする国へと変わろうとする日本に警告を出し続けてこられた。
いくつものがんとの戦いを続けられ、その際も役者・菅原文太として敢えて治療法選択にも意志を貫かれたり、世の中に対しても骨のある役者としてまだまだ活躍の場があるはずであろうと、心からお悔やみを申し上げたい。
そんなこともいつになく身に沁みるのは、実は急に50数年ぶりに入院する羽目になった。すぐには死ねないと先の禁煙宣言など健康に気をつけ始めた矢先に天の啓示かも知れない。幸いほかほかの(?)急性期で適切な対応で大事にはいたらないだろうということなので、この入院生活もブログネタにしたいと思います。(看護師が調子いいからと無理しないでくださいね、急性期で安静が基本ですから、と言ってパソコンを覗くようにしたので今回はこれで終了)
いくつものがんとの戦いを続けられ、その際も役者・菅原文太として敢えて治療法選択にも意志を貫かれたり、世の中に対しても骨のある役者としてまだまだ活躍の場があるはずであろうと、心からお悔やみを申し上げたい。
そんなこともいつになく身に沁みるのは、実は急に50数年ぶりに入院する羽目になった。すぐには死ねないと先の禁煙宣言など健康に気をつけ始めた矢先に天の啓示かも知れない。幸いほかほかの(?)急性期で適切な対応で大事にはいたらないだろうということなので、この入院生活もブログネタにしたいと思います。(看護師が調子いいからと無理しないでくださいね、急性期で安静が基本ですから、と言ってパソコンを覗くようにしたので今回はこれで終了)