2回目の3.11 私の場合 | 昼は会計、夜は「お会計!」

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会計をキーワードにコンサル業とASP(アプリケーション サービス プロバイダー)業のメールの二つの仕事をするmoriyanの言いたい放題ブログです。
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昨年は、3.11にブログはアップできなかった。それは、東京で暮らす自分たちですらどんな言葉に表したらいいのか、わからないというか、あふれる思いもありすぎたのか、よくわからないが書けなかった。
では、今年は何が変わったかというと何も変わってないけど、やはり残酷にも時間(とき)が経過しているということが一番大きい。それは、東京などは時間の経過ですっかり過去を忘れさせる大きな力が働く。見えるものでは、あの日を思い出させるものはほとんどなくなっている。
事務所がある四谷は、ビルの谷間には古い民家が多くあった。あの地震でかなりの民家が屋根瓦が落ちたり、家が傾いで警察の立ち入れ禁止の札が貼られていった。ビルの屋上から見ると屋根を覆うブルーシートが痛々しかったものだ。その後、その多くが買収されコインパークなどになっていたが昨秋頃からマンション等の建設計画が発表され、今まさに建設ラッシュ。事務所の両隣や裏で建設工事が進んでいる。その程度が震災の記憶に重なる出来事だ。それとあの日以来、オープンデッキのようになったベランダにはあまりでなくなった。

 あの日、揺れが激しく一度はベランダに出たが(うちは新宿通りには、平行する筋違いにたっているので、新宿通のビル群の衝立のように並んでいる)、向かいのビル群がゆらゆらと揺れているのをみて、自分たちのビルは古いし間違いなく倒壊すると覚悟し、死の不安がよぎった。その揺れている時間が長く、その恐怖感に耐えられなくなって気を失いそうな感覚を味わった。
 その後続く余震でビル7Fから下へ降りるのが怖い。数時間後漸く降りて、非難指定場所の小学校跡地へ行くと近くのビル群で働く人たちが集まっていて、(不思議と外国人がこんなに多くの人が居たのかびっくりしたが)、余震が起きると、目の前の建物が音を立てて揺れ、電信柱が揺れ、駐車場の車がユサユサ揺れると次々と大きな音を出してパンクする(車が揺れた時にサードブレーキが効いているので車が上下に大きく揺さぶられてパンクするようだ)、そのたびに何とも言えない嬌声が湧く。そうこうするうちに日が暮れ始めると、もの凄い人の波が四谷の街々を埋めていく。全体として新宿方面に向かって帰宅難民が帰りを急ぐのだが、通りのあちこちでガス漏れが発生しているらしく、東京ガスや警察の緊急車両が歩行者を誘導するために、次々と裏道に入ってくるのだ。コンビニから食べ物や乾電池がなくなり飲み屋はどこも超満員で、異様な夜が続いた。
 その日の夜も翌朝もずーとテレビで被災地の火災の状況などテレビをつけたまま。余震が怖いのだ。私が持っていた携帯はドコモではないので地震の緊急速報が入らないのが怖くて、テレビが唯一の速報装置。一日中、スイッチが入れっぱなしが続いた。

昨日から今朝とテレビでは記念特番が組まれているが、やはり被災者の心の傷は、2年ではどうしようもなく癒やしようがなさそうで、見ていても辛い。特に、子どもをなくした方の想いなどもう涙ぼろぼろでしか見られない。震災時に「つながる」とか「絆(きずな)」とか強調され、外国人から見ても日本人の我慢強い精神など美徳が強調されたこともあった。しかい、2年という時間の経過のなかで、福島から避難した子どもが「福島軍団」と言われたとか、家や家族を無くした人に「見舞金を貰っていいね」という声や「義援金を貰ってパチンコしている」などの避難の声が出たり、今の日本社会にある矛盾は何一つ変わってはいなかったと言うことをあらためて思い知らされている。子ども社会のいじめの構造も生活保護世帯を貧しい人がバッシングするという構造は震災後も、やはりというか同じことなのである。
 今朝のことだ。福島の警戒地域から避難して昨日一時帰宅をした人が、「迷惑だといわれる。もう非難される立場にいるのが辛い。こっちに戻って、(放射線のことなど)心配や気を遣う事の方が、まだいい」という人がいた。本当にショックだ。こんな思いをさせないでいられる社会できないのだろうか。

あの地震がきっかけで私が変わった事といえば、緊急地震速報が受信できるiPhoneに変えたこと、毎日お風呂に入った後お湯を落とさなくなったこと(仙台にいる息子夫婦は、たまたまの残り湯でトイレを流したり、パスタをゆでたりして貴重な水となったことを聞いた)、くらいしかないが、やはり月並みだが、私たちは忘れてはいけないし、あの出来事を風化させてはいけなのだろう。私も気持ちの上で東北の人たちに寄り添っていきたい。