昼は会計、夜は「お会計!」

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朝、ドアを開けたら雲を被らない朝焼けの富士山が見えてきた。宝永の噴火口も微かにわかります。天候の異常が叫ばれ続けて、いったい秋は来るのかと思ってたけど、これは秋晴れじゃない?!【撮影は5:49】

 大騒ぎした世界陸上選手権は男女の競歩の銅メダルを除きメダルなし。個別には「史上初の6位」とか、メダルを望めるに近い成績を残した種目もあったが、槍投げの北口さんなぞ、戦前にはほとんど言われてなかった6月の怪我で回復途上で60Mがやっと。散々煽っておいて選手が気の毒だ。男子競歩も世界記録を出した人とかいたが・・、ハードルも予選を通過が精一杯、短距離も長距離も日本勢はまったく歯が立たない。国内的には駅伝とかで人気もあるが国際的な水準には行ってないことを、それでもよしとするか。世界も日本代表的にも、敢えて表現すれば国際的な血統が関係しているのかとさへ考えなければならないかとも思ったりもする。純日本的な大相撲の世界でも外国人優位が変わらない。(もちろん私はだから排斥せよなどとは言わない。国際化が発展を招いていると思ってる)

 少し前に終わったバレーの国際大会でも放送局の意図とは違って男女とも上位にはなれない。やはり身長差は大きな壁だ。ヨーロッパのチームへ出ることでレベルは上がるがトップにはなれない。

 そうするとスポーツをビジネスにしようと考える人には限界ということを知っててもらいたいと思うしかない。あるいはもっと時間をかけて日本人の国際化が進んだ時に、今では信じられない本当の国際水準なるのかも。

話題のこの映画がチラシなど見ても、その意味が分からなかったので2回も観たが、なお新たな疑問も出るなどして、私としては珍しく原作本を遂に昨夜で読み終わった。 

 結論的に言えば、この映画は実に深い意味合いを持ったものということを改めて感じた。

 原作そのものも、映画と同じように「遠い山なみの光」のような薄明かりというか、簡単に言えば、ぼんやりとした雰囲気が全編漂い、それらの中に作者の意志、意図がしっかり入っているという何か久しぶりに文学の授業を受けてるような緊張感や集中力で読んだ。映画の中のセリフなどは基本的には原作(翻訳版)のセリフを尊重していて、数少ないセリフをそのまま生かしている事がまず驚いた。また映画のワンカット、ワンシーンも原作を基本的に生かしていてうまく繋げて行ってるのだ。脚本がそうしたことと全体のストーリーを原作の味を損なわないストーリー立てで成功している。その中で、脚本にしかないシーンがいくつかあるのだが、これが原作の意図を補完する大きな役割を果たしている(ネタバレの恐れがあるので詳細は略)。

 1950年頃の若き悦子に広瀬すず、1980年代の英国に渡った悦子に吉田羊.、長崎時代の悦子の友人・佐知子に二階堂ふみ、悦子の夫に松下洸平、その父に三浦友和、悦子の娘・ニキにはオーディションで選ばれたカミラ・アイコの芸達者な役者たちのある種不思議な演技、時に噛み合わないセリフのやり取りなどが、実はカズオ・イシグロの原作が持ってる特徴であったということは原作やその解説文を読んで初めて分かったものだ。更に言えば長崎時代の悦子、佐知子の関係に加えて佐知子の娘麻里子の三人の関係が大きく影を落とし英国に渡った悦子とその娘景子、ニキなどに影を落とし、佐知子と悦子の正反対に見えた二人が実はもう裏返しというか、重なるという意味深な描き方をした原作を上手にというか巧みに脚本にした脚本・監督の石川慶の技量が見事な映画であることが(原作を読んだり2回も観て)分かった。

 ただ、原作にないシーンという意味で、1980年代の悦子が長崎のシーンに登場したところ、麻里子を「景子!」と呼ぶシーンの意味が分からないこと、また最大の問題はチラシにあったニキに尋ねられ長崎時代の話をする中で、ニキが疑問に感じ<嘘>に気付き始めたという内容が特定できなかった事が、私としては悔しい問題点であった。

 それにしてもひとつの映画でここまで再考、検討した事はなかったので、やはり映画と言うのは本当に奥深いものだ。

ついに2回目の映画館に行った。席を前よりスクリーに近いところを確保して耳も視力もどちらも劣ってきているので、対応を変えてみた。 

 すると確かに前回見た時には気が付かなかった映像が分かったり、俳優の発言がよく聞こえてなかったセリフが「そう言ってたのか」というのも何ヶ所かあった。なので、細かな事で、「エー どうしてここで、そんなセリフ?」というシーンが何回か出てきた。そこの謎は、この物語の大事な鍵となるだろうと思うが、なぜその不自然さが起きたのか考えてわからない.

 なによりチラシをあらためてみると、そもそもおおきく「ある女が語り始めた過去の記憶。その物語には、心揺さぶられる<嘘>がかくされていた」とある。それがなんのことか2回目みた時でも何も分からなかった。母親が語った長崎時代の話しに「その中に秘められた<嘘>に気付き始め、やがて思いがけない真実に辿り着く」とあるのだが、それが何やら分からない。

映画そのものは原作が長崎を舞台にというのもあるし、日本とイギリスが舞台というのも興味をそそられるがこなにわからない事だらけで終わらせる訳にはいかない。それでついに、帰ってから、Kindleで検索したらカズオ・イシグロ原作本の日本語訳版が電子書籍化されてるのがわかって即購入した。(前にも書いたがKindleな良さだけどネットさへ通じてればいつでもどこでも手に入れる事ができる) 

 それで、ここなところずーと三浦しをんさんのエッサイばかり連続して購入して、すっかり夜のお友にしてきたが、久しぶりに文芸大作が夜の友となった。

 これは、始めたばかりでなのね、やや終わったらまたこの欄にアップします。