心の愛を自分の体に向けるからこそ、自分の体に宿ってる体に心の居場所ができる。自分の体に心を向けるからこそ、自分の体が心の居場所になる。落ち着いて、寛げて、安心できる場所
で、心の愛を自分の体に向けないとそれはよそ見ばっかりしてるわけだから、自分の体という居場所には心を向けないで(それは何らかの自分の中の要素をダメな事にしていてダメな自分を見たくないから)自分以外の外の誰かばかり見てたら、自分の体に居場所がないから何とかして外の誰かに心を向けてもらってそこに何とか心の居場所を作ろうとする。根なし草状態でよその領域に根を張ろうとしてしまう。自分の体に心の居場所がないからこそよそに居場所を渇望して必死のパッチ(言ってみたかっただけ)。
せめてよその誰かの領域にでも侵犯してでも心の居場所がないと、宙ぶらりんでさまよって、安定しなくて安心しなくて寛げなくて落ち着かない。
自分が自分一人でいるだけでは、心の居場所が自分の体になくて居心地悪いのだ。ここテストに出るよ!何で?だって自分の体に宿ってるのに。どうしてよその誰かに居場所を探し求めるの? よその誰かをどんなに渇望しても他の人には宿れないし、支配できないし、のっとれないし、思い通りにできないよ。
むしろ一番ぴったりしっくり自分の思った通りに出来るのが、自分の体に宿った心の愛を自分の体に向けるという事でしょ。これが自然の理
自然の理、世界の理、宇宙の理にそむいて自分以外の誰かに心を向けて、よそに居場所を探し求めてさまようから、 よその誰かが受け入れてくれるかどうか、自分の探し求めるものをくれる(領域侵犯して奪取する)事が死活問題になりそれ以外にどこにも心の置き場がなくなりよその誰かの領域に居座る事に執着してしまう。
ちょ、待てよ。
せっかく生きて物質として存在してる自分の体見てやれよ。自分の体は、自分の体に宿った心 が振り向いてくれるのを一途にずっと待ってる
浮気者で根なし草な自分の心の帰りをいつまでも待ち望んでる。
もちろん、全然こっちを顧みずよそ見ばっかりして!と不機嫌で怒り狂ってるかもだけどそれでも心の居場所は自分の体にあるんだよ。心が宿ってるのは、一緒に実感や体感が感じられるのは、自分の体だけ。
どんなによそに心を向けても、他人の領域には心は宿れないし、実感や体感は感じられない。
と、に、か、く
心の愛を自分の体に向けて、心の居場所を自分の体に確保する。心の愛を自分の体に向けて、自分の体から心を離さない。
よそに心を向けないようにするというよりかは何が見えても聞こえても気がかりで気をとられても、また心の愛を自分の体に向け直す。心を外に向けっぱなしにするんじゃなくてまた心の愛を自分の体に向け直して戻ってくる。どんな事があっても、それを優先する。その繰り返しよ。