これは、外の誰かとの相性とかはおいておいて


心の愛を向けるというのが、


ちやほやする、大切にする、興味関心を持つ、話しかける、優遇する、特別扱い、VIP待遇と同義だったとする。


これ全~部、心の愛は自分の体に向けたいし、自分の体は心の愛に向けてほしいしで、それがその相互に望む矢印が外れて、自分の体は心の愛を向けてほしいのに、心が外の誰かに向いていたら、不協和音が起こるよね。さらに、その不協和音のイライラを、『心をこっちに向けてよ!』と外の誰かに領域侵犯しだす。


外の誰かに働きかけだす。


この時、心の愛が向かってきたら体の愛で受け入れるという循環が起こってないから、自分の体は男みたいになる。これは、外の誰かから心の愛が向かってくるかどうかという話ではなく


全て自分だけの、自分一人の、心の愛と体の愛の循環の話で。


この循環が充分に起きていれば、心の愛を自分の体に向けて体の愛で受け入れていれば、外の誰かに領域侵犯しなくてよくなる。ここ大事。


テストに出るくらい、大事。


自分の体は心を向けてほしい、体(物質)は心(精神)を向けてほしい生き物だから、それが世界の理(ことわり)だから、そこをなくす事はできない、つまり心の愛を自分の体に向けてたら外の誰かに心をこっちに向けてよ!と領域侵犯しなくてよくなるし、心の愛を自分の体に向けなければ自然とどんどん領域侵犯しだす。


で、これがね、お金だと考えた時に、心の愛を自分の体に向けていたら錬金術のようにお金がどんどんザクザクたまってきて、心の愛を自分の体に向けてなかったら枯渇して外の誰かから搾取、奪い取る、領域侵犯するのだとしたら。


まずそれなしでも今、生きてる事に目を向ける


そして自分が心の愛を自分の体に向けるように誰もが心の愛を本人の体に向けたいという事、その自由の領域を尊重する。


領域侵犯してたら、心の愛を自分の体に向けてなかったら、そうやって外の誰かの自由を尊重 のは無理だから。どうにかして何が何でも絶対心をこっちに向けてよ!になっちゃうから。



自分の体は、自分の体に宿った心か外の誰かの心なのかはそこまで現実に判別できないから、とにかく誰でもいいから心を向けてほしい!となる。


誰でもいいなら自分の体に宿った心を自分の体に向けたらよくない?効率よくない?それ一択