外の誰かとのありとあらゆるパートナーシップ


対人関係で


近しい人 遠い人 距離感問わず


何かしらスムーズな循環(心の愛が向かってきたら体の愛で受け入れる)が起きない場合は


こちらが、領域侵犯してる可能性がある。


そしてそれはなかなか自覚するのが難しい。


よくあるのは子どもが親にあれしてこれして、心をこっちに向けてよ!と甘える場合。これを大人になって、外の誰かを親代わりに領域侵犯してもなかなか自分では気付けないよね。大人だから当然外の誰かはこちらに心を向ける義務はないので、あれしてこれしては強要支配コントロールとなる。


で、何故それが起こるのか、心の愛を自分の体に向けてないからだよね。


心の愛を自分の体に向けたまま、あれしたい、これしたいは、強要支配コントロールではないけど外の誰かの領域に働きかけるなら領域侵犯ではあるから、それを断られる可能性はあるしそこは相手の領域の自由にまかせて信頼する。つまり断ったり拒否してもいいし何より相手は心の愛を本人の体に向けているのが本来の姿であるという事。これは自分も外の誰かもありとあらゆる存在がそうであるという事。


ただこれは自分が常日頃から相当心の愛を自分の体に向けて、もう溢れんばかりにポイントをためておかないと、外の誰かに気をとられたらその一瞬でこちらもすぐに領域侵犯してしまうというわけ。


コミュニケーションのベースが全て心をこっちに向けてよ!と強要支配コントロールになってしまうわけ。


そうすると、それなしでは生きていけないと、依存行為を続けてしまうから相手の自由を尊重できないよね。絶対に心をこっちに向けてよ!断る自由は認めない!だってそれなしでは生きていけないから。


そうすると、心の愛はまず向かってこないよね


自分発信の心の愛を自分の体に向けるというのが抜け落ちてるから、相手に心を向けてもらう事にしか関心が向かないから心の愛が向かってきて体の愛で受け入れるという循環は起きない


つまり、強要支配コントロールベースでの領域侵犯(心の愛が向かっていく矢印ではなく相手から自分の方に引き込もうとする方向の矢印)でコミュニケーションが行われるから、お互いに引っ張る引き込む状態で関わるから、まるで磁石の同じ極同士が反発し合うみたいになってしまう。


これを払拭するには、まず自分が心の愛を自分の体に向けて、自分発信で心の愛を自分の体に向ける方向の矢印を立て、それに徹する事。


しかもいつも常にいつ誰とどこで何をしてても


心の愛を自分の体に向けて体の愛で受け取るという循環が自分の中で起きて成立してるから、安心するし安定してる。誰にも外の誰かに心をこっちに向けてよ!と強要支配コントロールの領域侵犯して依らなくていい。生きていくのを 外の誰かに心を向けてもらうために依らなくていいし、依存行為を続けなくてよくなる。


これは大きな変化だよ。


自分の生きていく理由が外の誰かに心を向けてもらうためではなくなり、心の愛を自分の体に向ける事これ1本に集約されていく。まさしく自分軸とはこの事。


だから外の誰かに気をとられたり心が外に向きすぎた時ほどなおさら心の愛を自分の体に向ける練習させてもらう。外の世界や誰かを無視し遮断し、自分を追い込んで生きるという事ではなく、外の世界も誰かも存在する、だがしかしそれでもなお心の愛を自分の体に向ける、それを優先してむしろそれ一択で生きるという事。


こんだけ思ってても、すぐに外に気をとられて領域侵犯やりちらかしてしまうんだからその度に軌道修正して心の愛を自分の体に向け直す事


循環が起きてない時は外の誰かは自由にまかせて自分が心の愛を自分の体に向け直す何度でも


何かしら寂しいとかが起きる時は心の愛が自分の体に向いてない時だという事。だから相手は関係ないんだよね。


自分が心の愛を自分の体に向けて循環を起こしているかどうか。


相手が領域侵犯してようと関係ない。


大切なのは心の愛を自分の体に向ける心の愛と自分の体の愛とのパートナーシップ。