心の愛を自分の体に向けるってね、物質である自分の体の存在を認めるって事だと思うんですよね。


そう、物質として体を持って、この三次元物質世界に確かに生きているという承認欲求。これは心の愛を自分の体に向ける事で満たされる。


しかし、心の愛を自分の体に向けないと、心は物質じゃないから、実体がないわけですよ。心が宿った体という物質に心という精神を 向けて初めて、自分の体という物質として生きてると認識できる。


自分の体に向けない心は根なし草のふわふわの正体不明のさまよう魂なわけです。やっぱり、そこは、自分の体という確かに存在する物質に向けてあげないと、心だけでは自分の体に向けないことには、実体のない正体不明の魂としてこの三次元物質世界にたたずんでいる事になる


そんな中、自分の体に向けない、自分が誰だかわからない実体のない心の状態のまま外の誰かを見ると、誰かがこちらの存在を認めてくれたとする。かまってくれた、心を向けてくれたとする。


心の愛を自分の体に向けてないから、その外の誰かが見出してくれた、認めてくれた自分が、自分の存在となってしまいますね。特に子どもの頃は、そうやって生きてるのかもしれません


だから、外の誰かが自分をどう見るか、それが自分の存在だと思って、相手の意向に沿おうとしてしまう。外の誰かが自分の承認欲求を満たしてくれるまでそれなしでは生きていけないと思って依存行為を続けてしまう。


だから外の誰かが気になるし、心の愛を自分の体に向けないで、外の誰かばっかり見ちゃう。


だからまずそれなしでも今、生きてる、自分の体を持って生きてると気付く事。そしたら心の愛を自分の体に向け直す事。心の愛を自分の体に向けて、自分の体という物質としての存在を認める事。それだけでいいんだよね。