外の誰かに向けるためじゃないって事。


外からの刺激は、操縦席の窓にも映るし音声も無線のように入ってくる。


しかし、それでも。目の前に何が見えてどんな音を聞いても。


心の愛は自分の体に向ける。


大事なのは、自分の体以外の全てを遮断して、無視して、孤立無援で生きてけって事じゃなくて。


外の誰かがいてもいなくても自然。外に何かがあっても聞こえても自然。それはあるがままで自由に存在させておいて、それでもなお心の愛は自分の体に向ける。


外からの刺激で何が見えても聞こえてもって事


つまり何も見ないようにしたり聞こえないようにしたりするんじゃなくて


何が見えても聞こえてもそれでもなお心の愛は自分の体に向ける。


自分の体の声を聞く。


自分の体を心で見る。


外からの刺激が気になる、気をとられそうな時ほどその練習させてもらう。


外界を遮断するのではなくあるがままで外からの刺激もありつつ心の愛を自分の体に向ける。


何度もその練習して繰り返し上手くなっていく


いつでも心の愛を自分の体に向けておけるように訓練しておく。


それをマスターしていくための人生。


心の愛を自分の体に向けないまま外に向けるとそれは領域侵犯になるから。心の愛を自分の体に向けてない分、外の誰かに向けてほしいと、強要支配コントロールになるから。


心の愛を自分の体に向けてない状態で人に会うとか外界に接すると、会う人さわるもの皆、心をこっちに向けてよ!と搾取する対象になる。


それがベースのコミュニケーションになるので相手は断る自由があるし本来、人は誰も心の愛を自分の体に向けていたいし、搾取されるのは嫌がる傾向にある。だから心の愛を自分の体に向けてない状態ではあまり上手くいかない。


心の愛を自分の体に向けていれば、常に自分の体に『不快はない?何が不快?大丈夫?どうしたい?』等と心で話しかけて快を抽出して不快をなくし快適環境を選びとっているので表面的には外の誰かにあまり話しかける事なく静かに黙っている感じになる。その状態で、心の愛を自分の体に向けたまま、心の愛が向かってきたら体の愛で受け入れる。それが心の愛と体の愛の循環。


自分の中で、心の愛を自分の体に向けて循環を起こしていたら、外の誰かとも、同じく循環が起こっていく感じ。


循環して巡りのいい心と体でいるためにも、心の愛は自分の体に向ける。