私はさんざん、『自分を大切にしないから、他人からも大切にされない』『自分を嫌ってるから、他人からも嫌われる』論に『はぁ?』と異議を唱えてきた。


それは、絶対的に『自分を大切にしてもしなくても、自分を大切にする人もいるししない人もいる。』『自分を嫌っていても、自分を好きな人もいるし嫌いな人もいる。』というのが当たり前中の当たり前だと思うからだ。 つまり、他人がこちらをどう思うかは完全に他人の領域の問題であって、こちらが介入できる事ではないのだ


では自分を大切にしたり自分に優しくしてたりすると、他人も自分を大切にしてくれて優しくしてくれたりする論、何が起こっているのか?


それはやっぱり、自分から見た世界がどう見えているのかという事。


心の愛を自分の体に向けていれば、まず自分がひたすら徹底的に自分の体に優しく大切にしている状態。で、この時だっておそらくこちらをどう思ってるかわからない人はたくさんいる。


ただ、心の愛を自分の体に向けているため外の誰かがどう思ってるか等の思惑を気にする必要があまりない。外の誰かがどう思ってるかよりも、あえて心の愛を自分の体に向けて自分の体の快を抽出し不快をなくすことに注力する。


ここのフェーズってあまり登場人物が自分の体以外にいないというか、関心が向かない感じ。どこで誰と何をしていても。


心の愛を自分の体に向けるってね、表面的には大人しそうに、静かに見える。外の誰かよりも心の愛を自分の体に向けて自分の体に話しかけるからだ。大人しく静かにしてると、そこまで集団の中で目立たないよね。


だからそうそう他人とぶつかる事もないはずだし、もちろんこちらの事をどう思ってるかは、わからないんだけど特に何かを言われない限りは特段、気にならない感じ。


で、そこでわざわざ話しかけてくるというのは用事があるか、こちらを気にかけているか、心の愛が向かってくるか、なんだよね。それは体の愛で受け入れるし、まぁそれに返事をする。


何か不快な事を、表立ってふっかけてくる人がいるとしたらそれは心をこっちに向けてよ!と領域侵犯してきてるから、それは心をそっちに向けませんよ、私は心の愛を自分の体に向けています、という姿勢をあくまでも貫く。都度、自分の体に快不快を問答しながら。心をこっちに向けてくれない人だ!とがっかり絶望して、諦めてもらうため。


つまり、大事なのは心の愛を自分の体に向けるという自分とのパートナーシップなわけでそれが外の世界にも反映するとしたら、外の誰かの思惑を支配コントロールしてるわけではなく、誰が自分をどう思ってもこちらは介入しない、ただ心の愛が向かってきたら体の愛で受け入れる。


この繰り返しが起こっていてもし外の誰かから不当な扱い、つまり自分が大切にされてないと感じるようなら、不快な領域まで侵犯してきてたらそれは自分の体の不快をなくし、快を抽出するために物理的に距離をとる等して動いたりもするだろうし自分の体が不快でない領域ならそれはその人がこちらを何と思おうと、好きにさせておやりよ。自由にさせておやり。誰にもこちらを嫌う自由も、大切にしたくないなら、しないという選択肢を持っている。それもまたよしや。


ただ、心の愛を自分の体に向けてないと誰にも嫌われたくない!(自分が心の愛を自分の体に向けてないから)外の誰かから心を向けてよ!大切にしてよ!と領域侵犯しだすためもちろんそれをしたくない人、つまりこちらを嫌う人や大切にしたくない人の自由を奪い、外側からの評価(他人にどう思われるか)が、気になってしょうがなくなるため、余計そこに焦点が合いその事象がクローズアップされてしまう。


つまり、相手の自由は変わらないんだけど、心の愛を自分の体に向けていれば外の誰かの思惑が気にならないし、相手を自由にさせてそれを尊重してあげられるけど、心の愛を自分の体に向けてないと外の誰かがこちらをどう思うか、嫌われたり大切にされてないかが気になりすぎて、しかも誰にもこちらを嫌ったり大切にするかしないかの自由は認められないため、一つの例外も許さない臨戦態勢に入り、周りを見張りあげつらっていくのでもちろんその事象が多いような気にもなってしまうよね。


実際には同じ位の頻度で外の世界から好かれたり嫌われたり、大切にされたりされなかったりしたとしても、心の愛を自分の体に向けてないと嫌われたり大切にされなかったりが多く起きてるような気になってしまうのかもね。


なので、私の説としては同じ事象が起きていたとしても心の愛を自分の体に向けてないと自分を嫌ったり大切にされていない事象ばかりに目を向けてわざわざあげつらって、多くカウント

してるのだろう!という結論だよ。