外の誰かに気をとられそうになっても、心が外に向きそうになっても、ひたすら心の愛を自分の体に向ける事に全振りする。


例えば『外に出て誰かに会いたい』ような時も心の愛が自分の体に向いてない場合は外の誰かに会いたいと思う動機が、『心をこっちに向けてほしい』つまり領域侵犯に基づいて発しているのである。


ではどうしたらよいのか?


まず体調ありきなので心の愛を自分の体に向けて一つ一つ聞いていくと、体力的には動きたくないし、外に出て行きたくもない場合、そこで漠然と『外に出て誰かに会いたい』という望みがあった場合は、外の誰かに心を向けてほしい自分が心の愛を自分の体に向けてない故の領域侵犯なのか、心の愛を自分の体に向けて、充分自分の体の望みを叶えて満たしてその上で自分の体がそうしたいと発している望みなのか。


心の愛を自分の体に向けた上での、自分の体の望みが外の誰かや場所に向かうものならばそれは相手にもその望みを断る自由がある事が真にわかってくる。


そしてさらにどんな時も、いつどこで誰と何をしていてもいつだって心の愛を自分の体に向けると決める、この選択以上に外の誰かを自分の上に置かない、そこはもうきっぱりはっきりと


どんなに好きな人でも、嫌いな人でも外の誰かの体という事に変わりなくて、心の愛は自分の体に向ける、それのみ。それによって、つまり自分が徹底的に心の愛を自分の体に向けて自分を守る人生を生きると決めた中でそれによってこちらを嫌う者があるのならば嫌わせておやりよ。自由にさせておやり。そこに介入する事はまた領域侵犯によって相手を支配コントロールしようと望む事と同じだから。


自分が心の愛を自分の体に向ける事を徹底するという事は、


同時に、外の誰かが心の愛を本人の体に向ける事を尊重できるようになるという事であり、


心の愛を自分の体にさえ向けていれば、その上でなお外の誰かに心をこっちに向けてよ!等と領域侵犯しなくてよくなるのである。


一歩間違えたら、人はすぐ領域侵犯してしまうものだから、その動機から外の誰かに会いたいのか、領域侵犯しなくてよい状態まで心の愛を自分の体に向けた上で、その上でなお自分の体の望みとして外の誰かに会いたいと望むのかはまるで違う動機によるものになる。


何より、心が無性に外に向かうような時でも、グッとこらえて(我慢するのとは違う)一呼吸おく感じで心の愛を自分の体に向け直す。


そこから意識を心をそらさない。いついかなる時も心の愛は自分の体に向けておく。外に向きそうになっても、心の愛は、自分の体にロックオンして恒常的に向けたままにしておく。これがとてもとても大事。


自分の誰かに会いたいという気持ちが領域侵犯ではなく、自分の体から出た純粋な望みであるなら、自分よし、相手よし、世界よし、の三方よしになっていくわけである。


自分の望みが領域侵犯であるかどうかは外の誰かに介入するという事は全て領域侵犯なのだが心の愛を自分の体に向けてない場合はとにかく心をこっちに向けてよ!という事に必死でそこに相手の選択の自由を与えない異議を唱える事を許さない強要支配コントロールの対人関係になる。


 心の愛を自分の体に向けた上での、自分の体の望みが外の誰かに向かう場合は、相手の自由を尊重した上で自分はこう望みます。こうしたいです。あなたはどうですか?という対人関係。


領域侵犯であっても、対人関係、コミュニケーションの仕方にだいぶ大きな乖離が出てくる。


ただこれだけであってもコミュニケーションの基盤に『心をこっちに向けてよ!』という強要支配コントロールがあるのと、心の愛は自分の体に向けて、それを相手にも尊重できてさらにこちらの願いは一方的に 見たら領域侵犯であるのであなたはそう望まないなら断る自由があります。私はこうしたいですがあなたはどうですか?となる。どっちの方が気持ちのよいコミュニケーションかは一目瞭然だし、それだと相手がこっちを好くも嫌うも、相手には相手の自由がある事を尊重できるようになるのである。


不満は、他人の領域にいく前に、全て心の愛を自分の体に向ける領域で不快をなくそうとするため、無闇に人のせいにしなくてもよくなる。


何より、心の愛を自分の体に向けると決め誰とどこで何をしていてもその姿勢や在り方を貫いていれば、外の誰かがその状態の正直な自分を好くも嫌うも相手の自由と尊重できるため目の前に残るのはこちらを大切にしてくれる優しい人ばかりとなる。それもこちらが必死に外の誰かに心を向けてもらうために相手に取り入って外向きサービスした結果ではなく、その在り方とは相反するように、心の愛をただひたすら、真っ直ぐに自分の体に向ける、そのために生きていくと決めた結果が自ずとそうなっているしもし外の誰かや何かが自分に優しくなかったとしても、それは相手の自由であり相手の問題と割り切る事ができるのである。