何かを見て、あぁいいなぁと思ってもそれって外の誰かの体の声、外の誰かの作った価値、外の誰かの体の声が自分にとって価値がある文化になっているんだよね。


その時には、外の誰かの声に価値をおいて採用してる事になる。


と、するならば。


自分の体の声こそが、文化になっていくって事なんだよね。


何をするのか、何に重きを置いて、何に価値を見出すのか、どの分野を選ぶのかはさておき、今ある文化が全て外の誰かの声が作ったものであるなら、自分の体の声こそが、文化になる。


何より大切な正しく生きる活力となる。


だから、自分の体の声をもれなく最優先に採用する心の愛と自分の体の対話や循環が大切だし自分の体の声、望み、欲を無視しない、知る、精通する、洗いざらい聞き出す、出し尽くす、とりあえずまず自分の領域では採用する(自分の体の望みを叶えるための提案を自分の領域でやってみる、自分の体の望みを心の愛で受け止める)のが、とっても大事。外の誰かの領域に関わる場合は断られる(望みが叶わない実現しない)場合もあるけどできるところまで最善を尽くすって事ね。それに関しても、外の誰かに関わるならどの配役に誰を採用するか、また自分が望んでもいないのに、勝手に配役を担おうとする輩がいたら不採用にする事。その相手が担ってもいい役割(例えば仕事仲間)をはっきりさせそれ以外の役割を担いたがっても不採用にする事。相手がどういう役割で自分の人生の配役を担いたがってるのか知る事。


例えば、こちらのやりたい事に口出しをしたり反対意見を言う輩は、『こちらの進路決定に対し影響力のある助言あるいは決定権を持つ人物』という配役を担いたがって何かを言ってきてるわけだから、その配役としてあなたを採用するつもりはありません、圧倒的に役不足です、不採用です、およびでないというのを、はっきりさせる。さらに言うとだいたいそういう人は、心の愛を自分の体に向けてなくて外の誰かに心を向けてほしくて、どうしたら心を向けてもらえるかどんな言葉を言えばいいのかわからなくてただ咄嗟に思い浮かんだ事を言ってるだけだから、それじゃ不採用になるよ、こちらはその配役にふさわしい人物として採用しないよ、というのをはっきりさせた方がいい。


自分が誰かと関わったり働きかける時も、誰をどの配役に採用したいのか。特に自分が誰かに働きかける時はどの配役を担いたがってその役に志願してオーディション受けにいってるのかどうしたら不採用になり、どうしたら採用されるのか自分でよくわかっている方がいいよね。


だいたい自分が不採用にする人物っておよびでないというのを気付いてすらいない、何か外の誰かに口出しして心をこっちに向けてよ!と、勝手に領域侵犯してくる人なんだよね。こちらが本当は心の愛を自分の体に向けていたいのはその自由意志はお構いなしなんだよね。


じゃあ自分が採用したくなる人物っていうのは自分の体を快や楽に導く提案をしてくれる役を自分から担ってくれる人は、採用したくなる!普段それは心の愛を自分の体に向けて、心の愛が自分の領域で充分担ってくれてるんだけど、わざわざ外の誰かを採用するならどんな配役に誰を採用したいのか。って事ね。で、この基準に合わない人物はとことん不採用にする。自分の人生の配役にその人物を採用しない。勝手に受けにきても突き落とす。これって外の誰かの声を聞かない、採用しないという事でもある。自分が価値をおくのは自分の体の声でありそれを追求して採用していく事。それが文化になるという事。自分が価値をおかないあらゆる外の誰かの声はちゃんと不採用にする事。外の誰かと関わる場合は自分が価値をおいて採用したい配役にふさわしい人物のみを採用する事。心の愛を自分の体に向けてそのままで関わりたい人


心の愛が向かってきたら体の愛で受け入れる。


自分の体の声を聞いていればそれだけで自分の人生が文化になっていくんじゃないかな。