精神を物質に向ける、世界の理(ことわり)


心の愛は自分の体に向けるために存在しているという事。


心の愛を自分の体に向けないと外の誰かに心をこっちに向けてよ!と、領域侵犯してしまうという事。


心の愛は自分の体に向けないと所在ない、どこにも居場所がない、いていいかわからない、外にばっかり向き自分の体に落ち着けずふわふわ浮き足立つ、存在意義がわからない、何をしていいか手持ち無沙汰で暇を持て余す、その結果その余力を外の誰かに向けて心をこっちに向けてよ!と領域侵犯し出す。


精神が物質を観測するのは物質が存在しやすくするため。


そのために一人に一つ心が宿っているのです。


皆、心の愛を自分の体に向けて物質として存在してる自分の体が生きやすくなるために、精神を物質に向けて観測するのです。


じゃあ心を外に向けてもいいんじゃないか?と思うかもしれません。誰だって心を向けられるのは嬉しい。でも、心の愛を自分の体に向けるという自分の仕事を放棄して、職務専念義務を遂行せず、自分の体を喜ばせず、無視し、ないがしろにして外の誰かの機嫌を優先するから、だからダメなんです。心の愛を自分の体に向けるのは自分の担当なんだからほっぽり出しちゃダメなんです。外の誰かに気に入られようと、好かれようと、いい顔してる場合じゃない。心の愛を自分の体に向けて、自分の体を喜ばせて好かれて気に入られてこそ、存在価値があるし嬉しいものなんです。


そしたら気になるあの人には誰が心を向けるの?


誰も彼も、大人になったら自分で心の愛を自分の体に向ける。それを信頼して安心して本人にまかせる。それを尊重して邪魔しない。それが愛や思いやり。その境界線を越えてしまうのは領域侵犯してる事になり、本人が心の愛を自分の体に向けてなくて心をこっちに向けてよ!と支配コントロール操作しようとしてきたり、外向けサービスで『アメをあげるから嫌わないで見捨てないで』と領域侵犯されて心を外の誰かに向けるのは、本人が心の愛を自分の体に向ける機会や力を奪ってしまい、本人の心が働けない手持ち無沙汰の無力な存在だと見くびる事になる。


だから自分に出来る事はどこで誰と何をしてもどんなに領域侵犯されても心の愛を自分の体に向けておく事。強い意志を持って、わざわざ、努力して心の愛を自分の体に向けて決して心を離さない事。そしてこちらもそのままの自分でつまり心の愛を自分の体に向けて外の誰かに心をこっちに向けてよ!と領域侵犯しなくていい自分のままで、心の愛が向かってきたら体の愛で受け入れる。それだけなんだよね。