『心の愛を自分の体に向ける』キャンペーン中なので、心を心に向けない、外の誰かに話しかけるよりも心の愛を自分の体に向けて自分の体に話しかける、をずーっと強化してきたつもり


で、さっきのブログにも書いたんだけど誰かを喜ばせたい、喜んでほしい!と思う時って心をこっちに向けてよ!私を気に入ってよ!という押し付けであり領域侵犯なんだよね。例えば、『その時の相手(の体)にどうしたら喜ぶかの選択肢を与えて、自由に選ばせてあげる』これをしてない事がほとんど。『私が選んだモノこれを受け取ってほしい!喜んでほしい!受取拒否しないでほしい!そしてあわよくばそれを受け取って喜んでその渡したモノの価値をもって私の事を気に入ってほしい!感じ悪く思わないでほしい!』みたいな。


でもここでのコミュニケーションとしての正解は、『私はこれを渡したいと思うんだけどあなたはどうですか?これが嬉しいですか?あなたが喜んでくれるならどうぞ受け取って下さい。嫌なら自由に断って下さい。(こちらはどちらでもいい)』


こんな感じのスタンスだよね。いつも心の愛を自分の体に向けて話しかけている時のような、対話の仕方。『これを受け取ってほしいから絶対受取拒否してほしくない!他の選択肢は与えない!この提案(や、その内容)に価値を感じて私の事を気に入って!感じ悪く思わないで!』なんてコミュニケーションはしてないよね。


なぜ外の誰かに向かう時はこんなコミュニケーションや、心理が発動してしまうんだろう?


その前に、心の愛を自分の体に向けて自分の体に話しかける、そうすると必然的に外の誰かには話しかけない、相手から話しかけられたら、答えたり、こちらから咄嗟に言葉が出てきたら話すという感じ。これが基本なんですね。


心の愛を自分の体に徹底的に向けて、そのままでも話しかけてくる相手というのは、つまり、心の愛を自分の体に向けて自分の体に話しかけていてもそのままで話しかけてくる、こちらの心をこっちに向けてよ!と領域侵犯してない事になる。こちらが自由に選んで心の愛を自分の体に向けて自分の体に話しかける事を、許してくれている、その自由を与えてくれている。


それ以外の、やたらと心を心に向けて外の誰かに話しかける会話の場合は、基本接待になっています。相手が喜ぶ事を先回りして予想して、自分が気に入られるように感じ悪く思われない

ように、自分が好かれようとするための外向けサービス。


で、これの何がダメかって、本来心の愛は自分の体に向けて話しかける(自分の体の機嫌や快不快をうかがう)ものなのにそれをすっとばして自分の体を置いてきぼり、ないがしろにして心を外にばかり向けて会話している、そうすると心の愛が自分の体に向いてないから、相手に『心をこっちに向けてよ!私を気に入ってよ』としなければならなくなる。だから、いったん

この外に向かう会話の仕方はやめる事にする。


で、相手からの会話の場合も、心の愛を自分の体に向けてない人は、『心をこっちに向けてよ』と領域侵犯してくるコミュニケーションになるんだけど、これも、心の愛を自分の体に向けていれば、相手もこちらが自由に心の愛を自分の体に向けている、その状態を認めなければ話しかけてこれないので、心の愛を自分の体に向けたまま、そのままの状態で、話しかけられたら答える、もし仮に領域侵犯されても心をそっちに向けないで、心の愛を自分の体に向けたままでいる。


これの何がいいかって、相手に気を取られて心を外に向けなくて済むのでずっと心の愛を自分の体に向けていられるので、自分の体は喜んで安心して機嫌も良くて快を抽出して不快をなくし快適環境を選び取っているので、いつどこで誰と何をしてても、心をこっちに向けてよ!と相手に対し領域侵犯しなくてよくなるのです。


相手から自分に領域侵犯させない(先回りして防衛する)方法はないけど、領域侵犯されても心を外に向けない、心の愛を自分の体に向けたままでいる、心の愛を自分の体に向けて自分の体に話しかける(必然的に外の誰かには話しかけず話しかけられたら答える)という事をしていれば、こちらから外の誰かに領域侵犯するという事態は防げます。自分の領域侵犯は事前に防ぐ方法があるのです。

心の愛を自分の体に向けて外の誰かに向けずにいれば心をこっちに向けてよ!と領域侵犯する(自分が気に入られようとするための)会話はしなくてよくなります。心をこっちに向けてよと領域侵犯して自分を気に入られるための会話はしなくてよくなります。だからこそ、無闇に外の誰かに話しかける会話はしなくてもいい、自分がそこにいてもいいかを確かめなくていい


心の愛を自分の体に向けていれば心の愛が自分の体に話しかけてどんな環境が快適で心地良いかそこにいたいかいたくないか、つまりそこにいてもいいかは外の誰かの反応ではなく自分の体の快不快フィルター(その働きをするのが心の愛を自分の体に向けるという事)で選ぶので自分の存在を『外の誰かに気に入られる事』に委ねなくてよくなるのです。


そして、無闇に『心をこっちに向けてよ!』と外の誰かに話しかけて相手の自由を奪わない、相手が心の愛を本人の体に向ける、その自由を尊重してあげられるようになる。相手の時間もお金も空間も食べるもの等も全て相手の領域の持ち物であり相手が自由に選んで決められる、それに対しそこに介入し相手を自分の所有物のように何かにつけて心をこっちに向けてよ!と領域侵犯しなくてよくなるのです。


で、初歩的な質問として、『心の愛を自分の体に向けて自分の体に話しかけるのはわかったし、そのままで外の誰かに話しかけられたら答えるのもわかったけど、じゃあそれって外の誰にも話しかけるなって事?話しかけられるまで外の誰にも話しかけちゃいけないの?』ってなると思います。


これに関しては心の愛を自分の体に向けたまま(無闇に心を外の誰かに向けない、外の誰かの機嫌をうかがわないままで)そこに意識を集中してたら外の誰かに話しかけるまで、なかなか自分から話す機会はないんですが、だから実際心の愛を自分の体に向けたまま自分の体に話しかけて外の誰かに話しかけられたら答える、と法則化してもいいかもしれませんが、それは、結果的にそうなっているという感じで、感覚的には自分の体が話したいと思ったら言葉がすでに出てきているという感じ。でもこれは咄嗟に言葉が出てきているので、自分でコントロールしたり感覚を掴むのは難しいかも。


例えば、何かの儀式とかで、全員知らない人が その場に集まっていて、特にそこで仲良くしなくてもいい、感じよくふるまって気に入られる必要がない、自分の感覚に集中して、外の誰かに話しかけないのが普通の場ってありますよね


誰も誰にも話しかけない、それが普通の場。


朝の電車の中とかもそうかもしれない。そこでおりたい時に通りにくい時に『おりまーす!』と話しかける(言葉を発する)事はあっても、自分が感じよくふるまって気に入られるために話しかける事はない。または誰かが困ってたりする場合は、咄嗟に言葉が出て話しかける事もある、でもそれはその相手に好かれるためではない。


社員食堂とかでも、特に知り合いと一緒でなければその場に人がいても話しかけないで黙々と食べる。それが普通の場。


そして最初に生まれた時もそうやって知り合いが誰もいない、こちらからは誰にも話しかけない(その前に言葉を知らない、わからない)、外の誰かに話しかけられたら答える(反応する)を繰り返してきて、段々と、見知った人が出てくるわけです。知らない人には話しかけない、それを人見知りと言ったりしますね。


段々と、見知った人、よく慣れ親しんだ人にはこちらからも話しかけるようになってくる。


でも、自分が初めて言葉を発した瞬間の事は、きっと覚えてないよね。その相手に気に入られたくて外の誰かに心を向けてほしくて、好かれたくて話しかけていたのかどうか覚えてない。


まぁでも子どもの頃はそれでもいいし、または子どもの頃ほど心の愛を自分の体に向けようとしなくても最初から心の愛が自分の体に向いたままのコミュニケーションができていたのかもしれない。


でそうやって誰も知り合いがいないところから生まれて、外の誰かを見知って慣れ親しんで、境界線や領域の意識もなく、その境界や領域を踏み越えて一つになりたい、融合して溶け合いたいという望みや願い、欲も出てくる。それは精神と卵子の受精で、一度身を持って物質的に完全なる依存を体験して体感して生まれてきてるから。自己ではない他者と融合する事に格別で特別な憧れを持ってしまう。


ただ、その望みを外の誰かに投げると領域侵犯であり、その前に、心の愛を自分の体に向ける事で、まずは心の愛と自分の体で境界線も領域もなく踏み越えて一体化して融合して溶け合いたいという望み、願い、欲を自分の領域に投げて自分の心と体で叶えるのです。満願成就。


自分にできるのは、自分の領域でコントロールできるのは、自分で努力して叶えられるのは、まずこれだけと思い知るのです。そのために、心の愛を自分の体に向けて話しかける。いつも常にどこで誰といても。そしてこれをしていれば、外の誰かに気に入られたい、感じよくふるまって好かれたい、という望みを、外の誰かに投げなくてよくなり、領域侵犯する必要がなくなり、相手が心の愛を本人の体に向ける自由を尊重してあげられます。だからそういう外向けサービスの会話はしなくてよくなって、少なくともこちらからそうやって外の誰かに話しかける事はしなくてよくなって、心の愛を自分の体に向けたまま外の誰かに話しかけたら答えるのがコミュニケーションの 主流になります。心の愛を自分の体に向けたまま、それでも外の誰かに話しかけたいとか言葉が咄嗟に出てくる時は


その時、つまり未来の自分の事を先回りして、想定して提案をぶら下げなくていいんです。


これはね、過去の自分がいつでも、外の誰かに周りの人に息を吸うように、優しく思いやりを持って親切に接し自分から感じよくふるまって話しかけるのがいい人で、そうすれば好かれて見捨てられないというのを法則化していたから


でもそれは心の愛を自分の体に向けないで外の誰かに心を向ける外向けサービスを、長いことやってきて染み込んでしまってたからいきなり外の誰かに無闇に話しかけるのをやめるのが、怖いんですね。


心の愛を自分の体に向けたまま自分の体に話しかけて外の誰かに話しかけないで話しかけられたら答えるなんてわがまま自分勝手過ぎない?そんな事したら感じ悪く思われて嫌われない?


いいんです!だって心の愛を自分の体に向けて自分の体に話しかける事が自分の一番したい事なんだから。それをしたら外の誰かにどう思われるか?と外の誰かの機嫌をうかがわなくて、いいんです!それこそ自分の体がどう思うかを無視してそれ以上に外の誰にどう思われるかを優先してしまっている!だから心の愛を自分の体に向けていなくて自分の望みがわからなくて外の誰かの望みに気を取られて、相手の好みに沿うように感じよくふるまって嫌われないように好かれようとするコミュニケーション、相手がこっちをどう思うかの選択の余地を与えない


嫌わないで見捨てないで欲しい、心をこっちに向けてよ!一択のコミュニケーションになる。領域侵犯して心をこっちに向けてもらうために話しかけてる事になる。


心の愛を自分の体に向けて自分の体に話しかけているそのままの自分に話しかけてくる相手というのは、こちらが心の愛を自分の体に向ける自由を尊重してくれている、そのままの自分をそのままでいていいと許してくれている、その自分のままでも話したいと思ってくれているんだよね。だから話しかけてきた。または向こうがどう思っていたとしても、領域侵犯して心をこっちに向けてよ!と話しかけてきたとしてもこちらは心の愛を自分の体に向けたままでいる心を外に向けない自由がある。


そして、心の愛を自分の体に向けている、外に向けない事を許してくれない相手は、そもそも話しかけて来ないだろうし、領域侵犯しようとして話しかけてきたとしたら、心の愛を自分の体に向けたまま一向に心を向けてくれない事に憤慨して怒って『この人は心をこっちに向けてくれない人だ!』と思うだろう。それでこちらを嫌い見捨てるというのなら、嫌わせておやり


好きにさせておやりよ。離れていくなら好きなところへ行かせておやり。


これを先回りして防止しようとして嫌われる前に相手の望むようにそれに合わせて話しかけて感じよくふるまっていたら、そうする事で相手の望み通りに合わせて好かれて気に入られてたとしたら、本来の自分じゃない外向けサービスの部分(しかも対価としてお金も発生してないその道のプロじゃない、お金をもらわなくてもお金を払ってでもこちらがしたい事でもない)でただ嫌われない、見捨てられないというその保障のためにこちらが勝手に支払っていたんだよね。


心の愛を自分の体に向けて、自分に嫌われないし絶対に自分を見捨てない、見捨てられない、これが常に確信のように揺るぎなく体感できていれば、外の誰かに心を向けなくて感じ悪いと思われても、嫌われて見捨てられても、自分に好かれて嫌われないで見捨てられなければそれでいいと思えるんだよね。だから、外の誰かにこちらをどう思ってもいい、嫌っても見捨ててもいい自由を尊重してあげられる。


最初は誰も知り合いがいないで生まれてきて、元々誰も見知った人がいないはずの世界にそれだけ誰にも嫌われたくない!とか、見捨てられたくない!という不安が恐怖があるという事はそうなるだけの傷が体験としてトラウマのようにあり、嫌というほど味わってしまったんだと思う。


だからこそそれはもう二度と外の誰かに嫌われないように見捨てられないように、外の誰かを依存対象とするんじゃなくて、外の誰かに嫌われようと見捨てられようとそこは気にしないで相手の自由にまかせる。それが信頼するという事。そして心の愛を自分の体に向けてもう二度と嫌われたくない、見捨てられたくないという望みは自分に投げてフルに発動する。


自分にさえ嫌われないで見捨てられなければ、つまり心の愛を自分の体に向けていれば、外の誰かに心を向けて!嫌わないで!見捨てないでという望みを投げなくてよくなる。話しかけて領域侵犯して心をこっちに向けてもらわなくてよくなる。


フルコミッション。


だから基本通りに心の愛を自分の体に向けて、自分の体に向けて話しかけたまま話しかけられたら答える、それだけを徹底するんでもいいんだけどそれでも心の愛を自分の体に向けたままでも話したいたい時はどうするか?自分から、相手に何か働きかけたい時はどうするか?それが心をこっちに向けてほしいという心の望みを

外の誰かに投げている領域侵犯か、自分の体がしたいと思ってする自分の体の望みなのかを、心で判断する事はできないので、心の愛を自分の体に向けたまま、

『外の誰かに話しかけたい?』と、自分の体に聞く。


自分の体はいつだって正直に正確にしたい事を答えるから、自分の体が、そうしたいと答えるなら本当にそうしたい事だし、自分の体がそれはしたくないと答えるなら、それは外の誰かに気に入られて好かれようとするために感じよくふるまおうとする外向けサービスで、自分の体の本当に望みではないという事。それを心が外に向いて外向けサービスとしてしたい事なのかを心で判断する事はできないから、自分の体の望みかどうかは自分の体に聞くしかない。


それで自分の体に聞いて自分の体がしたくないという事なら絶対にしない。これも、自分への信頼。それを自分の体の望みより、外の誰かの望みを優先してしまうと、自分の体は、自分の望みを叶えてもらえないと、裏切られた気持ちになり、自分への信頼を失ってしまう。そして自分の体の望みを無視して、外の誰かの望みに合わせて機嫌をうかがいそれに沿おうとしてると、自分の体の望みは望んでも無視されると、やがて望みを発しなくなったり自分の体の望みを無視してるので自分の望みがわからなくなる


心を自分の体に向けてないので自分の体の望みを拾えないし、自分の体の望みを叶える事より外の誰かの望みに心が向かってしまっているので、自分の体の望みに心の愛を向けてないので自分の体の望みをくみ取れなくなってしまっている。


だから、外の誰かに向かって話しかけたい時はそれは自分の体の望みかどうか自分の体に聞く


また何か素っ頓狂な働きかけを外の誰かに対してしようとする時は(大抵は心をこっちに向けてよ!という領域侵犯なのだが)いちいち自分の体にそれをしたいか聞いて問い合わせる。 


自分の体の望みじゃなければ、心の望みは心を外に向けて心をこっちに向けてよ!と領域侵犯しているフェイクの望みなので絶対に叶えない


採用しない。(もし実行しても外の誰かには何でこんな事するんだろう?と、素っ頓狂な言動になり、自分が思っていた心をこっちに向けてよ!嫌わないで!見捨てないで!という支配やコントロール、操作は叶えられないし相手にはそれを叶える義務はないし、嫌うのも見捨てるのも相手の自由という事。または本来の心の愛を自分の体に向けたままの態度ではなく外向けサービスをしているその態度を気に入ってるという事。


つまり本当の自分らしい自分、心の愛を自分の体に向けて、一番したい事をしている自分ではなくて、心を外に向けて外の誰かに気に入られるためのサービスをしている自分を気に入られているだけという事。


心の愛を自分の体に向けて、自分の体に聞いて確認してもそれをしたいと思ったなら、それは外の誰かに心を向けて外の誰かに気に入られるための外向けサービスではないから、自分の体がしたいと思ってする自分の体の本当の望みだから、心の愛は自分の体の望みを叶えるために働いているので、その自分の体の望みを叶える事に徹底する。


外の誰かに話しかけるのにここまで徹底するの?と思うかもしれないけど、外の誰かの望みに心を向けてそれを叶えて好かれようとする、嫌われないようにする、見捨てられないようにする、そのために話しかける外向けサービスのコミュニケーションよりも、心の愛を自分の体に向けて自分の体の望みを叶えようと自分の体に話しかけて自分に好かれようとする対話の方を徹底して優先するという事。心の愛を自分の体に丁寧に向けたままでも、それでもそのままでも外の誰かに話しかけたい、働きかけたい時は、それが自分の体の望みかどうか自分の体に聞いて自分の体の望みなら実行する事。咄嗟に言葉が出てきたならそれはノーカウント。


でも、ノーカウントの場合でも領域侵犯してる可能性はあるから、ノーカウントなら、何でもいいという意味じゃない。仕方ないという意味


だけどできれば自分から外の誰かに向けて放つ言葉なら自分の体に聞いて自分の体が言いたい事なのかどうか、自分の体の本当の望みなのかどうか、そしてそれを言いたい、伝えたいのは今なのかどうか、それも全部確認して伝えたり言葉を発する、話しかける、それが自分の言葉に責任を持つという事。意図して選び自分の体の望み、自分の体がしたい事を叶えるという事


心の望み(心の愛を自分の体に向けないで外の誰かの心に心をこっちに向けてよ!)なのか、自分の体の望みなのかわからない時は、自分の体に聞きます。これをしたいですか?と聞けばいい。それ位、自分の望みを叶える事はたえず自分の体に話しかけてないと難しい。心の快や望みは自分の体に心の愛を向けずに外の誰かに心を向けてもらいたいがためのフェイクなので心の望みは聞かない。心の愛は自分の体に向けて自分の体の望みを叶える、自分の体に喜んでもらう、それが一番のしたい事であり嬉しい事だから、それが外の領域に向かって外の誰かに喜んでもらう事が心の望みになってしまってる時は、必ず心の愛を自分の体に向けてなくて外に向けてしまっているサインだという事。心を外の誰かに向けてもらおうとする事は心の愛を自分の体に向けてない事への対症療法だから、自分の体の望みではない、フェイクの望みだという事。


心の愛は自分の体に向けて、自分の体の望みを叶える事が仕事だから心を外に向けて外の誰かの望みをうかがわなくていいし、それに合わせて外の誰かの望みを叶えようとしなくていいしそうしようとして外の誰かに好かれようとする心の望みは聞かなくていい。採用しなくていい


心の愛は自分の体に向けて、自分の体の望みを聞くのが仕事。外の誰かの望みを聞くのが仕事じゃないし、心を外に向けて好かれようとする心の望みは、本当は心の愛を自分の体に向けて自分の体の望みを叶えたいという心が、それを叶えられないで心が外に向かってる時に出る、フェイクの望みだから、外向けサービスの心の望みは聞かなくていい。心の本当の望みは心の愛を自分の体に向ける事だからそれ以外の心を外に向けた外向けサービスの心の望みは、全てフェイクだという事。そして心の愛を自分の体に向けて自分の体がしたい事、自分の体の望みなら全部叶えてあげようとする事。自分の体の望みが外の誰かに対して向かうものならそれを強要して相手の反応を支配コントロールする事は領域侵犯であり、こちらが外の誰かに向けてそうしたい!と思う事は相手も同じようにそうしたいかそうされたくないか、選ぶ自由があり嫌なら断っていいし、それを無断で強行する事は『こちらもされて嫌な事は断る』『勝手に判断されてこちらがしてほしくない事されたくない事を強行される』という行為を、相手の自由を奪って選択権を与えずに、領域侵犯しているという事。


つまり自分の体が望んで、心の愛を自分の体に向けてその望みを全力で叶えたいと思っても、それが外の誰かに向けての望みの場合は、相手も『そうされたくない』という本人の体の望みを叶えるために、嫌なら全力で断って受取拒否していいし、それによりこちらの望みが叶うか叶わないかの決定権、それを選ぶ、外の誰かに対してこれをしたいと自分の体が望んだ事が、実現するかは相手の自由であるし、それを尊重するという事。


それを領域侵犯して相手が嫌がってでも、無理やりそれをしたいのかどうか。または、自分がそれをしたら嫌がられる可能性がある事をそれでもどうしても他人の領域に対してしたいのかどうか。一つ一つ自分の体に聞くのと、相手の領域に対する事なら相手に聞いて確認する。


それを相手に聞きたいかどうかも、自分の体に『それを聞きたい?』と確認する。自分はこうしたい、(こうしてほしい)を表明してあなたはどうですか?を聞き入れる。自分がこうしたいを相手の領域に自分の望みを投げる時、相手がそうしたいかそうされたくないかは、セットという事。スイッチがあってこちらは相手にオンでも相手はオフなら電流は流れない、外の誰かに自分の望みを投げる時はこちらはオン、相手もオンになって初めて電流が流れるし、望みが実現するという事。相手がオフなのに、自分の望みを強行しても、相手をオンにする事はできないという事。つまりそれって相手の自由意志を殺して死体にレイプしてるみたいな事で相手の自由意志があれば断られて自分の望みが叶えられないから相手の断る自由を奪うためにその心を殺すという事ね。そのために命を奪う場合だってある(相手の自由意志を奪うために)。


そして、領域侵犯って結局そういう事。最終は心や命を奪うとこまでいきつくけど相手の自由意志を尊重せず無視して『心をこっちに向けてよ!』と相手のスイッチを無理やりオンにさせようとする事は、相手の自由意志を奪って心を無視して殺しているという事。もちろん自分の体の望みを相手もそう望んでくれる場合もある


つまり自分の体の望みを外の誰かの領域に投げそれが相手の望みでもあった場合はその望みが叶えられるし、こちらがそうしたい!と望みを叶える、自分の体の望みを尊重するという事は相手が『そうしたい!』または『そうされたくない!』という望みを叶える、本人の体の望みを自由に選んで叶える事を尊重する事と同じ事


自分が外の誰かにそうしたい!と思うように、相手がこちらにそうされたくない!と望んでるなら、お互いが自分の望みを全力で叶えているから、相手もそうしたいと望まない限りは自分の望みは叶わない、または、相手がそうしたくないという時点で『相手は望んでいないが自分はそれでも無理やりしたいか』と自分の望みを自分の体に聞いてみてもいいかもしれない。


ただし、そこで相手の望みを無視し、こちらの望みを相手の領域に強行するという事は相手の心を殺す事だという事。相手の心を殺してまでしたい事なのかどうか?そして自分の体の望みを相手の領域に投げる前に、日頃から心の愛を自分の体に向けて自分の領域で自分の体の望みを充分叶えて満たしているか?そうしていれば外の誰かに自分の望みを投げて、必死に叶えてもらう必要がなくなるので、相手が断ったり、スイッチがオフで電流が流れない事に対して、そこまで執着しなくてよくなるし、自分の存在価値が否定された!とショックを受けなくてもよくなる。心の愛を自分の体に向けて自分の体の望みを叶えていれば、外の誰かに望みを叶えてもらわなくても自分の領域で自分の体の望みを叶えているし、自分の快適なそこにいていい居心地の良い居場所が、尊重されているから。


外の誰かに話しかけるという事も、相手の領域に自分の望みを投げるという事だから、相手が聞きたくなかったり答えたくなかったり、無視して自分のやる事に集中してたりするのは本人の自由である事。そして、心の愛を自分の体に向けて、自分の体に話しかけるという事は無闇に外の誰かの領域を侵犯しない、相手が心の愛を自分の体に向ける自由を尊重するという事で相手のしたい事を邪魔しない、相手からこちらに話しかけてくる、つまり相手のしたい事が、こちらと話したい、だから話しかけてきた、という場合は向かってきた心の愛を体の愛で受け入れる、話しかけられたら答えるという事でもある。つまり相手が本当にそうしたいと望む時までこちらから相手の領域に働きかけない。


そして心の愛を自分の体に向けて、自分の体に話しかけてそれでもそのままでも、外の誰かに話しかけたい、何か働きかけたい時は、自分の体にそれをしたいか聞いて、自分の体がそれをしたいなら自分の体の望みを叶える。『それを今したい?』と聞いて、今したいならそれをする


そして自分が投げたその望みを相手がどうするかどうしたいかは相手の自由に任せるという事


好きにさせておやり、自由にさせておやりよ。