愛が重いってさ、


『私はこんなに深く重く愛してるよ!』までは別に重くないんだと思う。それに伴って、私はこんなに深く重く愛してるんだから、あなたもこうしてね!という支配コントロール領域侵犯で引っ張られると、その引っ張られる感じが、重いんだと思う。


本当は、心の愛を自分の体に向けていたいのに外の誰かから『心をこっちに向けてよ!』と、心をそっちに向けさせられる感じ。


もう体は大人で、胎児でもないのに、こっちの胎内に入ろうとしてきて、へその緒を向けさせられて、引っ張られて、心の栄養をよこせ!心をこっちに向けてよ!ってされてる感じ。


こっちの自由意志は無視されて、勉強しろ!と言われてる感じ。


これをさ、胎児でもないのに外の誰かの胎内に入ろうとして、へその緒を引っ張ってこっちに向けさせて、心の栄養をとられるってもう何かどんだけ~って感じだよね。


 本当は、心の愛を自分の体に向けて、へその緒も自分の体と繋がって、心の栄養を自分の体に向ける。それが本来の姿でありベスト。この、心の愛を自分の体に向けないで、心の栄養を外の誰かからとろうとして、へその緒を向けさせようとするのが、重い。自分のしたくない事をさせられようとするのが、重い。外の誰かからの栄養をどれだけもらえたか、引っ張れたか、とってこれたかで自分の価値や相手からの好意を測ろうとするのも、筋違い。お門違い。


正しくは、どれだけ心の愛を自分の体に向けて自分の体のへその緒から心の栄養を送れたかが自分の価値だったり自分にどれだけ愛されてるかが測れるものだと思う。心の栄養を送るとは心の愛を自分の体に向けて快を抽出し、不快をなくし、快適環境を選び取る一連の流れね。


自分に嫌われないために自分にサービスする、自分の機嫌をとる、自分に優しくする、自分に親切にする、自分を大切に守る、自分を特別に扱う、えこひいきする、等々、常日頃からそれを自分にやってないと、そういう心の栄養を、外の誰かの胎内に入ってへその緒を向けさせて外の誰かからとろうとする。それが領域侵犯


で、人は心の愛を自分の体に向けていたいから外の誰かに本当の胎児でもないのに勝手に胎内に入られたり、へその緒をそっちに向けようとされたら、重いと感じるよね。引っ張られて、重い。へその緒を向けさせられるのは重い。心の栄養をとられようとするのも、重い。


まぁでも、人間てそれでも、領域侵犯しちゃうのよね~。というか、日頃から心の愛を自分の体に向けてないと、外の誰かに心の栄養を向けてもらった時に、ものすごく嬉しいと感じるんだよね。それは、まぁ外からの刺激待ちの人生になる。心の愛を自分の体に向けてないと、外の誰かに心を向けてもらう事に依存し出して、それなしでは生きていけないと思って依存行為を続けてしまう。


でもね、それなしでも今、生きてるんだよ。


確かに、胎児の頃はへその緒を向けてもらって栄養もらわないと生きていけなかった。ただ、存在しているだけで、外の誰か(母体)から、栄養を送ってもらえた。


でも今は、胎児じゃないから。それなしでも今、生きてるんだよ。心を外から向けてもらうんじゃなく、心の愛を自分の体に向けるの。


または、外の誰かの胎内に入ろうとせず、外の誰かを胎内に入れようとせず、心の愛を自分の体に向けて、自分の体に宿ってる心の愛を胎内に鎮座させればいい。自分の胎内に深く入って居座ればいい。自分の体が心の居場所。それを外の誰に探さない。求めない。外の誰かの心の居場所に自分がならない。外の誰かをを胎内に入れない。


ただ心の愛が向かってきたら体の愛で受け入れる。


心の愛が向かってくるのと、外の誰かにへその緒を引っ張られて心の栄養をとられようとするのは全然違うでしょ。


あと、外の誰かに心の栄養を向けてほしいための外向けサービスも心の栄養を向けてクレクレ詐欺だから。


とにかくふんだんに自分の体に心の愛を向けて自分の体にこそ本当に親切に優しく自分の体に向けてサービスして、外の誰かにそれを向けてもらおうとしなくていい領域侵犯しなくていい自分で在りたいものですね。