外の誰かの体の言う事、というのは
どんなに権威のある人の言う事や、
過去の偉人の名言や、
目上の人の有り難いお言葉や、
社会全体のこうあるべき、みたいなものまで
ただの、自分以外の外の誰かの体の言う事だという事。
心の愛を自分の体に向けて、自分の体の言う事を聞くように、外の誰かの体に向けて言う事を聞いてしまっているという事。見に行って目を向けたり、機嫌をうかがったりするのも同じね
哺乳類動物である外の誰かの体の事を自分の体の言う事そっちのけにして、ほっぽりだして、聞いてしまっているだけの事。
もちろん自分が、それは絶対に取り入れたい!人生の指針にしたいほどいい言葉だ!と思って快適環境を選び取るようにその言葉を採用してるならいいけど、
何か嫌だなぁ
そもそもそれ本当かな?
あなたはそうかもだけど、私は違う
というような声を鵜呑みにして聞いてないか?
今も、だよ。子どもの頃ならまだしも。
わざわざそんな外の誰かの体の声という情報を取りに行ってないか?見に行ってないか?
なぜか?
心の愛を自分の体に向けてなくて、自分の体を見てなくて、声を聞いてなくて、暇だからだよ
だから、外の誰かの体の声を聞きに行って見に行って情報取りに行ってしまう
その好奇心や、情報収集力を、自分の体に向ける
心はあんまり自分と外の誰かの体の区別がつかない
体はもちろん、この体が自分の体!という実感や体感があってわかってる
だから、ふらふらと外の誰かの体に意識が浮遊してしまわないように、意識的して、心の愛を自分の体に向ける。宿ってるのそこでしょ?と
ただ、向けるだけでいい。後の情報収集能力はあるのもうわかってるはずだから
こっちだよ~そっちじゃなくてこっち向くんだよ~と誘導してあげるだけ。
担当してるのは自分の体だよ~外の誰かの体はその本人の心が担当してるんだよ~だから自分の体に心の愛を向ける、その職務専念義務と、責任があるんだよ~と教えてあげるしかない。
外の誰かの体に関しては、無責任でいられるし要望にこたえる義務もない。それをするのは、自分の体に宿ってる本人の心の愛だから。
生きている事が嫌にならないように
物質として在りやすく存在しやすくなるように
居心地よく快適にそんな環境で過ごせるように
快適環境を選び取って身を置けるように
快を抽出し不快をなくすように
それが心の愛の役目であり、自分の体に向けてこその役割を発揮するところだから、はっきり言って体感も実感もない外の誰かの体に自分の心を向けてる場合ではない。
そして心の愛を自分の体に向けないで外の誰かに向ける心というのは領域侵犯になりやすい。
つまり相手に対し(心の愛を自分の体に向けてないから)『心をこっちに向けて!』という強要がコミュニケーションのベースになってしまう
仮に、相手に対して言葉や態度に出さなくても無言の強要になってしまう。
だから、領域侵犯しなくていいように、心の愛は自分の体に向ける事に全振りする。
気付くたびに、何度でも。