靖國神社は「イベント會場」に非ず | 解放

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 每年八月十五日になれば靖國神社は參拜者でごつた返す。否、果たしてそれを參拜と呼ぶことが出來るのか疑問に感ずるやうな輩も來る。ともあれその日は「彼れら」に取つては年に一度の「大イベント」であるに違ひない。

 

 然し困つたことに彼れらは靖國神社に惡しき印象を植ゑ付ける目的でしば〳〵利用されてゐるのである。どうやら吾國のマスコミや外國の報道關係者の頭の中には「日本の右翼と言へば靖國神社だ」といふ圖式があるらしく、當日はこの印象を强調せむが爲め「異常な人々」を大寫しにする傾向がある。

 如何あれ、讀者には參拜に當たつて最も肝心なものが何であるかを三思頂きたい。それは「眞心」である。故に心ある方なら「きちんとした拜禮をしよう」といふ心延へを持つものだ。今はインターネツトがあるので容易に「正しき作法」を知ることが出來る。英靈と眞面目に向き合ふ方ならば、その位のことはしてをられるだらう。

 

 但し時折、實に「殘念な人」を目にするものだ。彼れらは一應神妙な面持ちで御神域に進む。けれども輕く柏手を打つた後に佛式で拜禮してしまふ。或いはその人たちは敬虔なる佛敎徒なのかも知れぬ。確かに「信仰」とは「自らが選ぶべきもの」であるからして、眞面目な方であれば「自らが信ずる流儀に從ふのでなければ眞心があるとは言へない」などと考へるのかも知れない。

 

  無論筆者はその方が何を信仰してゐるかに就いて問うてゐるのではない。その上で、その方は疑ひなく「非禮」であると指摘せねばならないのである。

 

やすくに
 

 言ふまでもなく、英靈は「靖國神社で逢はう」と誓つて散華なされたのである。英靈は「お寺で逢はう」等とは述べてをられない。然して英靈が捉へてをられた靖國神社は「誰もが嚴肅に日本式で拜する靖國神社」なのである。ゆゑに作法を違へて非禮を行なふならば、それは「英靈の冒涜」に直結すると言へるのである。
 

 ところで一昨年、筆者は靖國神社の拜殿に佛敎各宗派が揃ひ「法要」を行なつたといふことを仄聞した。代表者の叡南氏は「國のために命を捧げて亡くなつた方々に對する感謝の氣持ちを籠めた。これからも續けていく」と語つたらしい。尤も筆者は髮長が靖國神社に參拜することに就いて兎や角言ふつもりは無い。然るに御神域に於いて僧衣を纏ひ、剩へ讀經するとは何事かと思ふ。

 

 よくもまあ、こんな愚擧を靖國神社側が許可したものである。言葉は惡いが、筆者の眼にはその髪長たちが「軍服を着た變質者」と同じに見える。詰まりそれは英靈を愚弄せる惡質なるパホーマンスなのである。

 

 若しも彼れらに眞心があるのであるならば、かかる奇異な振る舞ひをせずに、肅々と日本式にて玉串を捧げるだらう。それを敢へて行なはないとなると、まさか彼れらは靖國神社が「無名戰士の墓」の如き所謂「無宗敎施設」と化すことを望んでゐるのではないか、といふ疑ひを持たざるを得なくなるものだ。

 

 はたして「髙野山眞言宗」は、現に靖國神社に對してそのことを暗に要求するかのやうな見解を示してゐるのである。曰く「日本國内の全宗敎團體が合同で法要、儀式が行なへる制度の配慮が必要である」と。最早何をか言はんや、である。簡單に言へば「英靈の御遺志」など眼中に無い、といふことを主張してゐるも同然だ。それとも彼れらは「日本の祭祀」に對して憎惡を抱いてゐるのだうか。となれば、筆者も日本佛敎の「虛構性」に言及したくなるのである。
 

 そも〳〵吾國に傳はる佛敎は、その實「佛敎」ではない。それは、ガウタマシツダルタの敎へに婆羅門の輪廻轉生思想が加味された上、各宗祖が作り出した幻想の合はされる「創始宗敎」なのである。然しそれでも尙ほ、ガウタマの敎へを尊ぶといふのであれば、佛敎徒はもつと合理的であらねばならない。凡そ物事には道理といふものが嚴然として存してゐる。若しも彼れらが「神社にて法要を行なふこと」を要求して憚らないのであれば、筆者も亦た佛式にて行なはれる葬儀や法事に參列した際、佛式作法の一切を無視しても宜い、といふことになるだらう。

 

 然るにそれは故人の遺志を無下にする行爲に外ならず、冒涜以外の何物でもないのである。そのことを考へるならば、靖國神社に於いて仕來りを守らぬことが「如何ほどの非禮であるか」といふことに氣が付いて當然なのである。
 

 眞言宗の祖なる空海にして「辨へるべきを辨へてゐた」ではないか。空海は髙野山金剛峯寺を開く際、地主神なる「丹生都比賣大神」及び「髙野御子大神」を決して蔑ろにはしなかつた。彼れは佛敎者として死後もその地に留まることを決意したので、鎭守なる丹生都比賣神社を尊んだ。ゆゑに金剛峯寺に參拜する先立つて、參拜者は丹生都比賣神社を奉拜するといふ習はしが守られて來たのである。空海は「物事の本末」を尊重してゐた。卽ち彼れは、固より御坐ます「神ながら」無くば、金剛峯寺は疎か己が宗門も存し得ぬといふ、否定すべからざる事理より目を背けなかつたのである。

 

丹生都比売神社
 

 筆者は吾國の佛敎宗派が自づと日本に囘歸し、遠い未來に於いては神ながらの信仰に純化してゆくことを期待してゐる。事實、神ながらは「宗敎」といふものではないからである。「宗」とは「敎說の眞髓」の義であり「敎」は「敎說の指示」を意味してゐる。「大敎」なる異稱もあるが、神ながらは本質よりして理屈を嫌ふものなのだ。或いは「敎へ」なるものがあるとするならば、祭祀を執り行なふことそのものが「不言の敎へ」である。日常の行事それ自體が既に「祖神の垂示」なのである。吾人が意識せずして話せる言語にしても然り。「色卽是空」などと改まらずとも、日本人は「空(うつ)」なる語を以て固よりその理を知悉してゐるのである。
 

 吾人は、日本人たる者が日本語を話し、日本文化の中に生ける限り、既に日本「神ながら」を無自覺に信仰してゐるといふ由を能々考慮せねばならない。箸を用ゐて食事をする、入浴をする、挨拶を交はし、お辭儀をする等々、之れら全て「神事(かみごと)」に基づける行なひだ。そればかりか「息をする」といふ生命活動すらも神事なのである。何故なら「息 いき」とは「出づる氣」の畧語にして、天地の氣を取り込むといふ觀念を持つてゐるからである。卽ち吾人は生まれる前より死する後まで、とこしへに加美奈賀良より離れること能はざる存在なのである。
 

 抑も、賢しらなる人爲を加へずして日本の風土の中で「おのづと發達してきた想念」便ち「神ながら」であり、それがそのまゝ「日本思想」なのである。それにも拘らず「日本思想」を辭典で調べてみると、何故か佛敎が起點となつてゐる。恰もそれ以前に「日本發祥の思想」が無かつたかの如く說明されてある。全く以て冗談ではない。筆者は、佛敎こそが「和の思想」の破壞者であると斷言して憚らぬ者である。
 

 卽ち鴻荒の世に於いては、米藏を氏神の下に置いて備蓄し共同管理してゐたものである。その代表者こそは神主であつた。然るに當時の吾國は百濟佛敎流の强奪システムを採用し、この傳統的社會構造を壞ぶりたのである。結句、米倉は僧侶の特權管理に移り、之れが爲めに當然の歸結として飢饉が頻繁に惹起されるに至つたのだ。


 それは扨て置き「日本思想」に關してを論ずる幾つかの辭典の篇纂者には、日本に對しての「惡意」すら感ずる。曰く「政治的に導入された佛敎文化によつて國家鎭護の思想が生み出された」だの「密敎が一般的な思想になつた」だのと說いてゐる。然して佛敎傳來以前の日本人が猿であつたかの如く印象付けたいのか「純日本」を完全に無視してゐるのである。
 

 然し實際には眞言密敎は神道の影響を多分に受けてゐるのである。古神道の大家・友淸磐山翁に據れば「空海は盜法の賊と謂へるかも知れぬ」と指摘してをられる。卽ち空海は弘仁二年二月一日に大中臣智治麿より神道灌頂を受けてゐる。密敎で行なはれる「結印」にしても、それは外敎と習合する以前の山嶽信仰に於ける「つまぐしのむすび」に起源が求められる。護摩行はチベツト邊りでも行なはれてゐるゆゑ、外來のものと勘違ひされがちであるが、同樣の行法は所謂繩文時代の吾國で既に行なはれてをり、今でもアイヌなどがそれを傳へてゐる。時系列を考へるに「逆に吾國から傳播した」と考へる方が餘程得心がゆく。
 

 このやうに「實は吾國が發祥であるもの」は探せば幾らでもあるものなのだが、さういふ眞實は、日本人でありながら日本を「低く卑しきもの」として扱ひたいといふ輩によつて何時も覆ひ隱されるのである。然して、かかる輩の根底にあるものは「信仰的執念」であると言へるだらう。彼奴らは、皇國が自らの信仰よりも偉大であるといふ眞實が明かされることを斷じて庶幾しないのである。

 

 但し、かやうな崇佛派と雖も日本人であるので、本能的に 皇室を輕視すべからざる存在であると認識してゐる。亦たそれに因つて 皇國振りが保たれてゐるといふ現實を徒には無視し得ない。幾ら外敎を熱烈に信仰してゐても、吾國の自然風土は彼れらを「日本の感性」に繋ぎ止めるのである。筆者は彼れらが日本に囘歸することを强く望んでゐる。その爲めに、埋もれつゝある「純日本思想」を掘り起こし、且つそれを體系化せむと志すものである。

 

日本の自然

 

 結びに「純日本思想」を探求された先達の言を揭げさせて頂く。
 

 渡邊重石丸先生「固本策」に曰く「たま〳〵神聖の典を講ずる者有れば、則ち羣聚して之を笑ひて曰く、彼は神道を學ぶ。彼は和學を修む、と。目するに異端を以てし、口を極めて之を排す。其の弊、今世の鴃舌者流の西洋を艷慕する者と何ぞ異ならん。心既に父母の邦に背けり。幾何か其れ夷狄たらざんや」と。【芳論新報 令和二年九月號より】

(參考 太田龍著「エコロジー敎育學」)

 

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