佛敎傳來時より聯續せる「穢れた勞働觀」 | 解放

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新しき革新運動

 科學の序開きは「宇宙は神が創つた機械仕掛けである」とする發想に基づけるもので、歸するところそれは耶蘇敎と一體を爲してゐた。元來のマルキシズムにせよ「聖書の神」に「挑戰」する思想に外ならず、耶蘇敎なくしては出現し得なかつたといふことが出來るのである。

 卽ちマルクス自身、耶蘇敎をつとに意識してゐた。その心延へは多分に思想に反映されてゐる。そこで、先づはマルクスの詩を御確認頂きたい。

 

 卽ち『司祭どもよ、惡魔は貴樣らの後ろに立つまい。惡魔よ、汝が息によつて我が詩は奮ひ立ち、我が胸のうちの神を私が無視する時、云々』と。

 

 是に於いてマルクスは唯物論者でありながら無神論者ではなかつたことが判ぜられる。要は「神」を「憎むべき對象」として「認めてゐる」のである。

「精神や宗敎、文化なる上部構造は物質なる下部構造が作用して築かれる」と論じたマルクス。その理論は、卽ち彼れ自身が生涯敵視して已まなかつた「神」に對して突き上げた拳であつたのだ。

 

 ところで、果たしてマルクスは勞働者の「味方」であつたのだらうか。宜なる哉、勞働者は物質を生產せる土臺でありながら、自らも亦た「物質的存在なること」を免れ難き存在なのである。然るがゆゑに勞働者は幾ら抵抗を試みたところで結局は「商品化」乃至「物象化」されてしまふ。かかる存在は如何に團結したとて、そのまゝでは惡智慧の働く資本家を凌駕するほどの力―卽ち「歷史的破壞力」を持ち得ないと言へるのである。

 そも〳〵マルクスは「物質的生產力の程度に應じた生產關係が結ばれ、生產力が發展すると生產力そのものが資本主義社會を破壞し、遂には社會主義社會へと發展する」と說いてゐるのだけれども、實際「資本論」はこのことに關して極めて婉曲なる說明にとゞめてゐる。

 

 

  平たく言ふと、彼れは社會主義社會に移行する過程の「具體像」に關して全くといつて宜いほど論述してゐないのだ。(但し「段階に應じた社會像」を偶發的に提示せる「非公式の記錄」は存在する)

 

 好ましからざるエネルギヰ

 

 いづれにせよ、左樣な机上の空論は疾うに破綻を來してゐる。亦たそのことは既に歷史が如實に證明した。然りとて筆者はマルクスの理論の一切を否定せるものではなく、共感を覺える主張も少なからず見出せるのである。

 

 特け「宗敎は惱める者の溜息であり、心無き世界の心情であるとともに精神無き狀態の精神である」なる言には强く同意してゐる。

 

 然りと雖も、皮肉にもマルクスこそは「精神無き者」或いは「唯物論に浸淫された者」を量產せる「元凶」に他ならない。その上で「勞働」そのものに「精神」など在りはしないことに就いて身を以て承知せるものだ。

 畢竟勞働は「賃金を得るための行爲」に外ならない。勞働者は「權利が或る程度保障されてゐる環境」に於いてこそ「職業意識」の如きを維持すること能ふのであつて、著しき搾取が行はれる劣惡なる環境に置かれた場合、斷じてこれを保ち得ないのである。

 

 一方資本家はかかる情況に依つて生じる「不滿」でさへ少しも恐れてゐないと考へて宜い。剰へ彼れらは勞働者が生半可なる「管理されたデモや集會」に參加することを期待し、不滿をSNSで呟くことを庶幾してゐる。

 何故ならば不滿のエネルギヰはそれらに因つて無力化されるからだ。資本家は、その程度のことを先刻承知してゐるのである。

 

 なかでも「宗敎」は左樣な「好ましからざるエネルギヰ」を能く解消する。實際吾人は宗敎生活を送ることで精神を安定させ得るし、或いは一時的であれ鬱屈せる氣分を霧散させることも可能なのである。

 

 然しそのとき、人は階級なるものを殆ど意識しないばかりか「信仰の力に因つて嚴しき日常を忘却する」といふ現實を容易に甘受してしまふ。だからこそ「マルクスの思想」は「精神」や「魂」といふものを徹底して否んでゐるのである。


 とまれ茲に於いて「勞働」の意義を考察してみよう。それはマルクスの母語であるところのドイツ語にては餘り好ましき意味を持つてゐない。漢字の場合も然り。「勞」は「疲れる」といふ意義を含んでゐる。ドイツ語の「Arbeit(勞働)」に至つては强制勞働を意味せるチエコ語「Robota」と同源である。亦た「ロボツト」なる造語こそはこの語を基にしてゐるのである。

 

 實際、勞働者はロボツト以外の何者でもない。卽ち雇用されて勞働する現場であるところの「社會的に存在すべき領域」に於いて、勞働者は如何あつても「精神ある類的存在」足り得ないのだ。

 

 例へば「社是」の如きが揭げられ、かかるものを每日唱和する企業が在るとする。然し、かくの如きは凡そ「擬似の精神」に過ぎず、更らには勞働者より「社會的に存在せる意義」を奪ふのである。それは宗敎然ながらに「現實の忘卻」を促進させる作用を孕んでゐる。

 

 亦た勞働組合運動も「根本の問題」を解消し得ないといふことを指摘せねばなるまい。詰まるところ現實の運動は本質に於いて「勞働者は商品である」といふ事實を是認した上に成り立てるものなのである。

 

 それ卽ち、西洋思想に端を發せる雇用構造下に在る者の定めであると言ふことが出來る。茲で確認して置かねばならないのは、かやうな勞働觀こそは資本主義のみならず「社會主義に於いても共有されてゐる」といふ事實に關してだ。筆者はかかる事實にこそ西洋思想の限界を見るものなのである。

 

  今日、吾人は餘りにも外來の觀念に淫されてをり、あらゆる發想をそこから出發させてしまつてゐる。それでは、お定まりの方法論しか發見し得なくなつて當然なのである。

 

 然ればこそ吾人は日本人らしき勞働觀とは如何なるものなのかといふことに思いを致さねばならないのである。

 そのことを理解するに當つて、先づは「勞働」を大和言葉では何と呼ぶのかといふことに就いて觸れて置かねばなるまい。

 

萬業の根本は髙天原に在り

 

 —それは「はたらく」に非ず。

 果たして「はたらく」はしば〳〵「傍を樂にする」ことの意とされるものだが、無論謬說である。

 はたらくとは、本來「俄かに動くこと」を意味する。從つて勞働に相當せる和語は「し-ごと」であると判斷すべきなのである。

 要之「爲(す)べきこと」の義にして「生命活動と直接せる營爲」を意味せる語だ。

 

 そこで吾國に於ける「爲事(しごと)」の「根本」を考へた場合、やはり「稻作」と「養蠶」を置いて他に無いことに氣が付くのである。

 

 言ふに及ばず、稻作と養蠶は畏き邊りの行なはせ玉へる御ことである。加言するにそれは幽事(かみごと)であつて、日本人の原點ともいふ可き矣。

 

 

 果然その「原點」は、現象世界の根源なる髙天原に存してゐる。古事記に曰く「天照大神以天狹田 長田爲御田」「天照大神當新甞時」「天照大神 方織神衣 居齋服殿」と。

 卽ち 天照大御神御自ら御田を御所有なされ、新甞祭を執り行はられ、神御衣(かむみそ)をお織りあそばさられる。

 然してその縮刷こそが御親耕竝びに御親蠶であり、延いては民の行なふ「農」であると斷じ得るのである。

 

 解かり易く言ふならば、髙天原に於いて 天照大神も神を奉られ、その神業が 天皇、民へと繋がつてゐるといふ譯だ。

 

 驚くべきことは、かくの如き精神文化が自然の隨に成立したといふことである。それこそ吾國の「神と人との關係性」が「羊飼ひと羊」の如きものではないといふことを證してゐる。だからこそ、皇國は「羊飼ひと羊の關係性」を國家社會の根本義とせる外國とは全く質を異にしてゐると言へるのである。

 

 渡邊重石丸翁曰く「身は卑賤なりと雖も、道は尊し。身に行ふ所は 天神の事なり。口に言ふ所は 天神の法なり。而して 天工に代り 天職を奉ずるは、國體を維持すると、皇基を護衞するとの事に非ざるもの莫し」と。

 

「君民一體」「一君萬民」なる語は斷じて「標語」ではない。吾國に於いてそれは繪空事などではなく、文化の根底に「事實として」存せるものだ。まさに吾國には、ヒトラーをして「ドイツが五百年費やしても眞似し得ない」と言はしめた構造が自然に備はつてゐるのである。世人は何故その奇蹟を自覺しないのだらうか。

 

神業の縮圖

 

 その實「勞働」なる槪念は斷じて「日本の感覺」ではない。「仕事」を始めとする生活行爲は悉く「神業の縮圖」にして、一切は 天皇に歸一するのである。

 從つて吾人は社會に於ける「理想のかたち」を「内側」に求めざる可からず。日本人は本能の底より湧き上がれるところの「直觀」を輕視してはならないのである。

 

 まさしく仕事を含む日本人本來の生活行爲は「拵へもの」ではなく「自然に成立して進化してきたもの」であると言ふべきであらう。純乎として純なる「日本の思想」も亦た、慣習や感覺の中にこそ息づいてゐる。例せば、日本人の「自づと穢れを遠ざける慣習」にもそれを見出し得るのである。

 

―ともかく、筆者は茲で多分に誤解されてゐる俗說に關して言及する必要性を感ずるものだ。卽ち、日本人が素より持せるところの「忌穢の觀念」が「穢多」の如き不當なる差別意識を助長したといふのは事實無根の「大噓」なのである。

 

 直截に言へば「穢多」「非人」なるは佛敎に由來せるものだと斷ず可し。「穢多」の始まりは佛敎傳來の時期と完全に重なつてゐるのである。本然の日本人は米が主食であるとは雖も狩獵も「神聖なる仕事」として行なつてゐた。故に、狩獵に關はる神が各地に祀られてゐる。

 謂はゞ 皇國に於いては狩りも亦た固より「神事の一環」であるといふ位置づけなのである。換言せば佛敎こそがその營みを「惡」と斷じ、更らには「穢れたもの」と規定しつゝ狩獵や食肉產業に從事する者を「穢多」と名付けて排除したのである。

 

 說明するまでもなく、人は「動物性蛋白質」を必要に應じて攝取せねばならない。これを本質よりして「惡事」と見做せる髮長の論法は矛盾も甚だしいと言はねばならないだらう。

 

 何しろその理窟で言へば、人以外の動物が他の生き物を捕食するといふ自然法則そのものも「惡しきもの」として捉へねばならなくなるし、かやうな「自然の循環」に因つて齎さられる「菜食」をも否定せねば辻褄が合はないのである。

 

 

  かくて外より輸入されし賢しらなる思想は日本人の生活を祭祀と切り離してしまつた。しかのみならず、吾國に於ける「仕事」を「勞働」なる「俗の次元」へと引き摺り下ろしたのである。

 

 確たる事實として、佛敎は太古に於ける「米倉の共同管理システム」を破壞してゐる。髮長どもは大衆から食糧を奪ひ取り、これを恣意的に管理下に置いたのである。加へて彼奴らは食糧と道德律とを獨占した上で、それを「再分配」してみせた。吾國はこの段に於いて胡亂なる「搾取の構造」とそれに伴ふ「穢れた勞働觀」を受容してしまつたのである。

 

 如何あれ吾人は今日に於いて更らにその上に種々の「非日本」を重ね着してゐる。それ現狀に於いて致し方なきことであるとは雖も、日本人はいつの日にかはそれらを脫ぎ捨てゝ、名實の伴へる「固有思想」を追求せねばならない。

 

 筆者は次の如く考へる。蓋し仕事を含む文化が「幽事(かみごと)の次元」に昇華されるならば、穢れたる行なひはあらゆる領域で忌避されるであらう、と。

 

 以爲らく勞使閒に於ける諸矛盾の解決にせよ徒に外來思想に賴つてはならないのである。

 そろ〳〵日本人は「純日本なる觀念」を尋ね、且つそれを髙度ならしめることを試行すべきなのではあるまいか。

【芳論新報 令和二年十二月號より】

 

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