司会者「先日、ある場面を見て思ったことがあったんです。
朝、○○さんが送迎車から降りて、玄関に入ってきて、それを出迎えたアカリちゃんが、
『○○さん、おはよう!』
って、それはとても親しみのあるいい感じで声をかけたんです。
明るいんだけど、とても穏やかで親しみのある声を。
それに応えて○○さんは、
『おはようございます。よろしくお願いします』
と、はにかみながら、いつものようにおっとりと言ったんです。
いつもの風景っちゃー風景なんだけど、僕はいくつかのことをその時思ったの。
まずは、三年前にまめ家に入った頃には、何もできず何も言えなかったあのアカリちゃんが、こんなに自然に、親しみの染み込んだ挨拶をするようになったんだなぁって、感心しちゃった。
何をしていいのか分からなかったアカリちゃんが、今は○○さんに、自分の気持ちをちゃんと伝えている、伝えたい気持ちがある、っていうことが、なんだかとてもうれしくなったんです。
それと同時に、それならばなおさら、さらにもうひとつ考えてみたらどうかな、って思った。
みんなはどう思う?
このアカリちゃんと○○さんのやり取りから、何か気になるところはないかい?」
スタッフA「二十歳そこそこのアカリさんが『おはよう!』って結構ラフで、○○さんが『おはようございます』って丁寧に言ってるところですよね」
司会者「そこに違和感がある、と。
だとしたら、どうしたらいいと思う?」
スタッフB「やっぱり、お年寄りには丁寧に『おはようございます』と言うのがいいのかな」
司会者「なるほど。
でも、そうしたら、アカリちゃんのあの親しみのある感じは消えちゃうかもね。
それは結構かけがえのないものだと思うんだけどな。
丁寧な声って、事務的、といういい方もできない?
お年寄りにはすべからく丁寧な言葉使いで、っていうのは、対処法の統一みたいだしね。
言葉のやりとりは、形式的な側面ばかりじゃないだろうし。
関係性でなされる面も大きいし、それを、形式的に対処法の統一で塗り固めていいものとは思えないなぁ。
確かに、『おはよう!』の持つ親しみ深さをそのままに、『おはようございます』に変換したらいいんじゃないかっていう言い方はあるかもしれないけれど、そこからこぼれ落ちるものがあるっていうか、そういう変換作業のわざとらしさが消しちゃうものがあるっていうか。
そのこぼれ落ちたり消えたりするものを、無視しないっていうのは、「場」にとっては大きいことなんじゃないかって、これは個人的なこだわりかもしれないけれど、思うんだ。
で、一番問題だと思うのは、関係性を狭めちゃうんじゃないかっていうこと。
僕らが、○○さんに対して、『おはよう』も『おはようございます』も、もしかしたら『ウッス!』とか、そうやっていろんな言葉をかけられる可能性があることと、『おはようございます』という距離感しかもっていないことは、随分違うんじゃないかって。
アカリちゃんの『おはよう!』は、○○さんとの内なる関係っていうかさ、割と二人の間だけの関係性だからこその、親しみ深さだよね。
で、その関係性は、それはそれとしてとても大事だと思う。
でも、この時僕が最も気になるのは、傍から見て、○○さんがアカリちゃんに気をつかい、頭を低くしているという、見た目の悪さ、じゃないんだ。
スタッフが偉そうで、お年寄りが遠慮しているっていう、その風景の見た目の悪さ。
それじゃない。
○○さんは、常々、スタッフに世話になっているという気持ちが強いし、申し訳なく思っているということを外に対して、スタッフに対して明らかにしたいと思ってる。
だからこそ、この場面の一番気になるところは、外から見て、アカリちゃんが○○さんより偉そうだ、という、そのシチュエーションに、○○さん自身がすすんでそのまま乗っかろうとする事なんだ。
傍目があろうがなかろうが、そうするんだよね、○○さんは。
なんとなく、言っている意味が分かってもらえる?
○○さんは、アカリちゃんとの親しみある関係をよく分かっているし、それをうれしく思ってくれている。
でも、それは、そのまま表現されないんだよ。
僕は、二人の親しみ深い内なる関係も、堅苦しい外の関係性も、どっちも大事だと思う。
傍目をよくするために、内の関係性を制限するなんて、ナンセンスだと思う。
だって、○○さんにとっては、傍目の問題じゃないからさ。
じゃあ、どうするか。
制限しないで、広げたらいいんじゃないかって思うんだ。
どんなやり方がいいかなんて、みんながそれぞれにやったらいいことだと思うんだけど、僕が常々、考えて、やっていることは、メリハリをつけるってこと。
関係性の距離感を、時によって、或いは瞬間瞬間に、伸ばしたり縮めたり、広げたり狭めたり、押したり引いたりする。
例えば、○○さんは、朝、みんなにお茶やコーヒーをすすんで入れてくれるじゃん?
で、僕もわざと甘えて『○○ちゃん、俺にもコーヒー入れてくんない?』なんていやらしくいう訳だ。
そしたら、○○さんは、ニヤーっと笑って、黙ってコーヒーを入れてくれるから、それを受け取った僕は、『いつもみんなにもしてくださって、ありがとうございます。いただきます』って言う。
ちゃん呼ばわりで馴れ馴れしくしておいて、でも、して下さったことに対して、丁寧に礼を言う。
その遠近感のギャップと、切り替わりのスピード感で、馴れ馴れしさも、形式ばった礼儀も、どっちも際立たせる。
その、距離感のメリハリで、僕は、内の関係と外の関係のバランスをとってる。
関係の距離を一定に保つんじゃなくて、寄ったり離れたりをちゃんとすることで、バランスをとる。
バランスってのは、静止しているように見えて、実は、いろんな力がいろんな方向からかかっていて、動的な状態の中で起こっている「静止」だからさ。
別に難しいことじゃなくていいと思うんだ。
僕の気安い『おはよう!』に、○○さんが『よろしくお願いします』ってお辞儀したら、玄関の壇下にいる○○さんと頭の位置が同じになるくらいに、しゃがんでお辞儀して、『こちらこそよろしくお願いします。今日もお世話になります』って、ちょっとそれだけで。
親しみ深い内の関係の『おはよう!』も、外の関係の『よろしくお願いします』も、どちらも大事さ。
外の関係だけに限定するのはつまらないし、馴れ馴れしいところから堅苦しいところまで、関係性の幅をもっている方が、僕らが○○さんに出来ることがずっと多くなるんじゃないか。
僕はそんな風に思っているんだ。