朝一番に、キコさんを迎えに行くことが多い。
今朝もそうだった。
玄関から「おはようございまーす」と声をかけると、奥からお嫁さんが「ありがとうございまーす」と返してくれる。
ガラガラとダイニングの引き戸が開き、お嫁さんが椅子に座っているキコさんの両手をとり、自分の体重を後ろにかけて、グイっと引っ張ってキコさんを立たせるのが見える。
キコさんは、立位がますます後ろ体重になって、転倒が増えた。
中々立とうという気になってくれないし、デイのお迎えという時間が限られた場面では、グイっと引っ張るしかないのだ。
それを眺めながら僕は、お嫁さん、それを迷いなくやれるようになったんだなぁ、と思った。
玄関に両手引きで誘導されたキコさんに、お嫁さんが問う。
「上着着ていく?外は寒いよ」
キコさんは、アハハと笑って、はっきりした返事をしない。
今朝は本当に寒かった。
上着は着ていくべきだ。
お嫁さんは、キコさんの右腕をジャケットの袖に通す。
そして、左の袖を左肩に掛け、キコさんが右手でそれをもったところで、クルッと向きを変えて、床に置いてある荷物をまとめる。
その間にキコさんは、必死になって左の袖に腕を通している。
着こみ過ぎていて、腕がなかなか通らない。
お嫁さんは、それを見て、介助してキコさんの左腕を通して、ジャケットを着させた。
お嫁さんは、初めからこういうことができたわけじゃない。
どこまで義母の言うことを汲み、どの時点でどの程度強引に対処するか。
デイサービスのスタッフという外部の人間が見ている前では、さらにそれは判断を迷うことかもしれない。
その判断は、刻々と変わるキコさんの状態に沿って変わらざるを得ない。
お嫁さんが出来るようになったことは、「どのようにお義母さんに対処すればベターか」ということを決めることではなく、自分自身で判断することに自信をもつことだろうと思う。
どのように対処するかは、刻々と変わるのだから。
介護職員なら、キコさんが左腕を袖に通そうとする前に、「できる?」「だいじょうぶ?」「よいしょ!」などといらぬことを言いたがる場面だ。
お嫁さんはそっと身体の向きを変えて視線を外して、キコさんの自然な動きを邪魔しないことを心がけていることが分かる。
お嫁さんにはその瞬間に「荷物をまとめる」という用事があり、それに専念することで、キコさんのその時やるべきことは「ジャケットを着る」ということだと、キコさんに空気で伝える。
キコさんは既にジャケットを着るモードに自然に導かれて、それに専念する。
僕は、これを「生活支援」というのだろうと思う。
見事だ。
最近、或る偏屈な介護仲間と話したことが、ずっと頭に残っている。
彼は、スタッフ・ミーティングをしない、と言った。
何故なら、情報の過剰さがスタッフの自然な動きを阻害し、「生活」という自然さを邪魔するからだ。
彼が言ったことを僕なりに翻訳するとこういうことだと思った。
スタッフの自然な動きとは何か。
スタッフと言っている時点でそれは自然ではない。
人間として自然な動きということだ。
それは彼によると、転びそうになった人に思わず手を出してしまうこと、そういうことが自然なことであり、当たり前のことだろう、と。
ミーティングとは、台本を組むことだ。
マニュアルも技術も知識も同じ。
資格も介護保険も同じ。
そういった作為を一切省いて、ひとの自然さに任せる。
とはいえ、専門的な介護の知識や技術が全く必要ないかというと、そういう訳にはいかない。
彼はそれを、「専門的に担当するスタッフ」を自分の他にもう一人置いて、食事やトイレや入浴などの「介助業務」と呼べることは、二人ですべてやる。
その二人は、「自然さ」を作為的に作ることができるという意味でも、専門的なスタッフなのだろうし、深いところで二人がつながっている同士でなくてはいけない。
その他のスタッフは、ただそこに居る人として、いる。
そうするには、大きなスケールでは不可能だ。
ただそこに居る人が、転びそうになった人に思わず差し出した手が届く範囲に居なければならない。
二人の「専門的スタッフ」ができる介助量でなければならない。
定員10名の彼のデイサービスは、そうした事情で、実質定員は7名なんだそうだ。
僕は、これは小規模ケアの一つの究極的な考え方なのかもしれないと思う。
もちろん、彼の言うことを、「自然さ」と言いながらやはりそれも「作為」なのではないかといちゃもんをつけることは出来るだろう。
僕はそれよりも、彼のストイックさ、正直さに心を惹かれる。
その考え方の前では、「できる?」「だいじょうぶ?」「よいしょ!」ですら、自然なことなんじゃないか。
介助としての適切さよりも、例え利用者にとって都合が悪くたって、「自然さ」を優先させることが、本当の「生活支援」なのではないか。
偶然が呼び込むなにがしかを「福」と捉えることこそ、自然なことなのではないか。
お年寄りの不利益を排除することが「利用者本位」ではなく、不利益だとしても自然であることを受け入れることが本当の「利用者本位」であり、それはもう、利用者本位でないことこそ利用者本位なのだ、ともうわけが分からないことになる。
いや、全然よく分かるよ。
一昨年の春、福岡の「よりあいの森」の見学ツアーに参加した。
僕は、別に「よりあい」さんに特別な質の高い介護を期待していたわけではないし、そんなものはないだろうと分かっていた。
そんなもの、必要ないだろうと。
正直、そこで暮らしている方々と触れ合うような時間は、苦痛だったな。
ひとの生活のなかに、集団がどかどかと無遠慮に入っていくことが我慢できないし、その一員に自分がいるということは、もっと我慢できない。
そこで僕が目を引かれたことは、介護用品と言えるものが、ほとんど目につかなかったことだ。
お年寄りに合わせた高さのテーブルや椅子、のような。
そういった、お年寄りに都合のいいもの、は極力排されているんじゃないかと感じた。
その代わりに、古ぼけたソファーや低いテーブルが、普通にあった。
食事の場面でさえ。
お年寄りの体格に合わせたテーブルやいすを用意することは、介護の基本だ。
同時にそれは、お年寄りを「介護される人」という役柄に限定するリスクが伴う。
自立とは、既製品に自分を合わせるその能力のことだ、という言い方も一つあると思う。
誰が、オーダーメイドに囲まれて暮らしているというのだ。
それは、とても不自然なことだ。
お年寄りに合わせたイスやテーブルが揃った空間が、不自然に見えるのはそのためだ。
キコさんのお嫁さんが、以前より強引にキコさんの手を引っ張り立たせるようになったのは、お嫁さんの朝の事情もあれば、キコさんが以前の様に不機嫌に反応しなくなったこともあれば、例えデイのスタッフが見ている前であっても、それくらいの強引さはあってしかるべきだという気持ちの折り合いがついたこともあるだろうと思う。
同時に、以前と同じように、キコさんの意に沿わないことはやりたくないという意志が、キコさんの自然な動きを導く自然な所作に表れている。
キコさんにとって不本意なことだってあるだろう。
けれど、椅子やテーブルがお年寄りに合わせてくれるばかりでは、やっぱり不自然だ。
お年寄りが、自分にそぐわない設備に対して、何とか合わせようとする、そのチャンスを奪っていいものじゃない。
だってどう見たって自然なことは、既製品に自分を合わせて、それを自分のモノにするという、その試みの方だと思えるからだ。
不本意だって、お年寄りの「本位」の一つに違いない、と言ったら、言い過ぎかしら。