(3)亡命政権論の取り扱われ方
ここまで見てきた通り、ハーゼルのアメリカ軍事占領論と亡命政権論は現実的ではない。特に「アメリカ軍事政府」の存在を主張が幅広い支持を得ているとは思えない。おそらくまともな国際法や政治学での研究者からは相手にされていないだろう。そうであれば、こうした議論をここに取り上げる必要はない。
しかし、アメリカ軍事占領論はともかく、亡命政権論は全く無視されているわけでもないようで、新聞で話題になったことがある。
①2009年、陳水扁
2009年8月12日、自由新報は「陳水扁が冤罪を主張:中華民国は亡命政府だ」(阿扁申冤:中華民國是流亡政府)と題する記事を掲載した。その記事によると、先にも挙げた林志昇という人物がアメリカの裁判所に訴訟を起こした際、証拠として提出した台湾の地位未定を証明する文書に陳水扁の署名があり、そこの肩書に「前中華民国亡命政府総統」(前任中華民國流亡政府總統:Former President of the ROC government in exile)と書かれていたというものである。記事にはこの文書の写真が掲載されている。
自由新報 2009/08/12
https://news.ltn.com.tw/news/politics/breakingnews/254308
これについて陳水扁事務所は認めている。そして、「台湾の地位が未定であるか否かをアメリカに問う」という点においては、林志昇のこの訴訟を支持すると述べている。ただ、民進党の主席であった陳水扁は、台湾の地位は未定であり、台湾は独立すべきであるという立場であった。一方で林志昇は台湾地位未定論についても、台湾独立についても否定的である。したがって、陳水扁が林志昇のすべての主張を認めているわけではなさそうである。
台灣英文新聞「控美案 扁辦聲明與林志昇劃清界」2009-10-13
https://www.taiwannews.com.tw/ch/news/1080168
陳水扁がどういう意図で「亡命政府総統」という肩書を記したかはわからない。ただ一時期、陳水扁が林志昇に協力をしていたというのは事実らしい。が、その後縁を切ったのも事実のようである。
メールマガジン『台湾の声』『日本之声』: 「台湾の声」【國民新聞】台湾民政府の実態【林志昇集団】
http://taiwannokoe.blogspot.com/2014/08/blog-post_48.html
なお、林志昇らがアメリカ政府を相手に訴えを起こしたものこの訴訟は「台湾の国際地位及び台湾の人権保護に関する請求」だという。そして、彼の主催する台湾民政府という団体のホームページには、裁判で彼らの主張がアメリカの裁判所に受け入れられたかのように書かれている。
http://usmgtcgov.tw/AboutUs/TCG?id=37&langCode=ja-JP
なお台湾民政府のホームページで、以下の判決が出たことが紹介されている。確かにこれを見る限りは彼らの主張が受け入れられたように見える。しかし、この判決は地方裁判所(ワシントンDC)での判決である。この裁判は最終的には最高裁まで行ったようである。
Case 1:06-cv-01825-RMC Document 24 Filed 03/18/08
https://www.govinfo.gov/content/pkg/USCOURTS-dcd-1_06-cv-01825/pdf/USCOURTS-dcd-1_06-cv-01825-0.pdf
②2010年、蔡英文
2010年5月25日、自由新報は「蔡英文:中華民国は亡命政府だ」(中華民国是流亡政権)とする記事を掲載した。この記事によれば、蔡英文は以下のように述べたという。
「中華民国は亡命政府であり、(過去の)台湾統治の数十年の間、権威主義的統治と中国性の合体が見られた。現在は中国性と台湾性および台湾主体意識には微妙な関係が発生している。以前は中国性が主体で、台湾性は客体であったが、今は主体と客体の地位が逆転している。・・・・・成長中の台湾意識で中華民国という問題を見なければならない。中華民国は亡命政府であり、数十年の統治期間は、権威主義的な統治と中国性の合体した中華民国在台湾での統治とみることができる。その権威性と中国性によって、中国文化と中国言語は台湾で強い勢力を持った文化と言語になっているのである」
自由新報「蔡英文:中華民國 是流亡政府」2010/05/26
https://news.ltn.com.tw/news/politics/paper/398509
ややわかりにくい発言であるが、重要だと思われるのは以下の2点である。
・台湾意識(台湾人を主体とするアイデンティティー)という視点で中華民国政府を見れば、中華民国政府は亡命政府である。
・数十年にわたる中華民国政府の統治は、権威主義と中国性によるものだった。
蔡英文は台湾出身であり、いわゆる本省人である。彼女は中華民国政府を「大陸から台湾に亡命してきた政府」だという意味で亡命政権という言葉を使ったのであろう。言葉としては林志昇と同じく「亡命政府」と言っているが、蔡英文の場合は林志昇を支持しているとか共感しているとかいうことではないように思われる。
蔡英文はこの発言について以下のようにも述べている。
「蔡英文氏によると、彼女はかつて歴史学者になりたいと思っていたことがあり、のちに法律を学んで法律学者になったが、今は政治家であり、「私は法律学者や歴史学者の角度で中華民国の問題を見ることができないことを知っている」という」
自由新報「蔡英文:中華民國 是流亡政府」2010/05/26
https://news.ltn.com.tw/news/politics/paper/398509
つまり、この「亡命政府」という発言は、政治的な表現であり、法律的な表現ではなく、歴史学的な表現でもないということである。
なお、彼女のこの発言は、台湾の国家としてのアイデンティティーを後退させるものだとか、政府が亡命政府なら陳水扁は前亡命総統で彼女自身も亡命政府の要員となり自己矛盾だとか、さまざまな批判が寄せられたという。
BBC NEWS 中文「蔡英文“流亡政府”说在台惹争议」2010年5月26日
https://www.bbc.com/zhongwen/trad/china/2010/05/100526_taiwan_cai
③考察
なぜ陳水扁(2008年5月まで中華民国総統)や蔡英文(2010年当時は野党であった民進党の主席)が「亡命政府」という怪しげな言葉を使用するのかはわからない。一定程度、林志昇の考えや運動に共感しているということかもしれない。少なくとも「亡命政府」という考え方には共感できる部分があるのかもしれない。
しかし、陳水扁と蔡英文が、ハーゼルの意見を全面的に受け入れてこうした行動をとり発言をしたとは思えない。少なくとも、アメリカ軍事占領論を肯定するようなことはあるまい。また、ハーゼルの意見そのままに亡命政権論を信じているということもないだろう。ましてや、それを根拠に中華民国の国家性を否定することもないだろう。
先に述べた通り、亡命政権論は、定義を広く緩くとれば認められないこともない意見である。大陸反攻を強く主張していた蒋介石の時代には特に「国民党政権は亡命政府である」という言説は心情的には受け入れやすかっただろう。
また、この亡命政権論は民進党が綱領にも掲げる台湾の独立とは比較的親和性があるように思われる。つまり、国民党政権に批判的であり、外省人に対して排他的な態度をとり、台湾を「台湾人」のものとする価値観は、民進党とハーゼルで共有しうる立場であるからである。また、台湾独立を主張する人々が主張する台湾地位未定論も、台湾の地位が既定であるとする中華民国政府の立場と異なっているという点においてはハーゼルの軍事政権論と共通点があると言える。
こうした点を考えれば、陳水扁と蔡英文の立場も多少理解できるのかもしれない。
なお、ハーゼルについて調べてゆくと「台湾民政府」という団体に行き着く。先にも出てきた林志昇という人物が主催していた団体で、メンバーにハーゼル(何瑞元)の名前がある。
この団体は、以下のようなこと主張している。
台湾民政府の主張 1.国際法理に基づき、台湾の国際地位を正常化させます。 2.日本天皇は台湾の所有権を保有しており、米国大統領は台湾の占領権を掌握しています。 3.米国大統領は万国公法に従い、台湾の地位正常化を実現させる責任が有ります。 4.万国公法、戦時国際法、サンフランシスコ平和条約を含め、国際法を遵守します。 台湾民政府の立場 1.暴力又は武力を使用せず、各種の方法を駆使して亡命中華民国の台湾における占領を終了させます。 2.中国植民政権(亡命した中華民国政府)の推進する事務に対しては、積極的にも消極的にも協力しません。 台湾民政府ホームページ http://usmgtcgov.tw/AboutUs/Position?langCode=ja-JP |
ここまで極端な主張をしている団体であれば、おそらくまっとうな学者はこの団体の主張などは相手にしないだろう。
また、日本には台湾に親しみを持っている一方で天皇制や日本軍にもある種のこだわりをもっている論者もいる。そうした人々であっても、この主張にはなかなか共感できないのではないだろうか。
参考:
多田恵「「台湾民政府」林志昇カルト集団に注意!」
http://taiwannokoe.blogspot.com/2014/02/blog-post_7.html