2.ソフト・パワーとは
今回の変更で、本稿では特に「尊敬・好意」について検討したい。特に「ソフト・パワー」との関係を検討してみたい。まず、ソフト・パワーとは何かを確認しておく。
(1)ソフト・パワーとは
ソフト・パワーというのはジョセフ・ナイが提唱し始めた概念である。
ナイはその著書「ソフト・パワー」(Soft Power: The Means To Success In World Politics)で様々な表現でソフト・パワーを説明しているが、もっともわかりやすいのは「ソフト・パワーは他人を引き付ける魅力」(27ページ)だという説明だろう。あるいは「自国が望む結果を他国も望むようにする力であり、他国を無理やり従わせるのではなく、味方につける力である」(26ページ)とも言っている。そして、「単純化するなら、ソフト・パワーとは行動という面で見れば、魅力の力である。力の源泉という面でみれば、ソフト・パワーの源泉はそうした魅力を生み出すものである」(27ページ)のだという。
ナイはまた、ソフト・パワーの源泉は「第一が文化であり、他国がその国の文化に魅力を感じることが条件になる。第二が政治的な価値観であり、国内と国外でその価値観に恥じない行動をとっていることが条件になる。第三が外交政策であり、正当で敬意を払われるべきものとみられていることが条件になる」(34ページ)という。
この説明を見れば、2022年版の国益定義の「尊敬・好意」という言葉がソフト・パワーという概念を意識したものであることは明らかだろう。
ごく簡単に具体例を挙げておく。第一の「文化」だが、これは文学、絵画、音楽などの芸術分野、自然科学、人文科学、社会科学など学術分野、スポーツ分野など幅広い。第二の「政治的価値観に恥じない行動」というのは、日本であれば立憲君主制、民主主義、自由主義など、あるいは三権分立、法の支配、基本的人権の尊重、普通選挙、二院制などと言ったことが守られているかということだろう。第三の「外交」は、日本であれば非核三原則、専守防衛、アメリカとの同盟関係、戦争放棄、戦力の不保持、国連の重視などといったことだろう。
こうしたものを日本以外の国が認め、日本を尊敬し、日本に好意を持つ人が増えれば、それが日本のソフト・パワーということになる。
ナイによれば、彼がこの概念を初めて使ったのは1990年に刊行された「不滅の大国アメリカ」(Bound to lead : the changing nature of American power)であるという。この概念を掘り下げ、発展させることを目的に書かれたのが2004年の「ソフト・パワー」である。
その後、ソフト・パワーの考え方は、おおむね世界に受け入れられていると思われる。ソフト・パワーというものが具体的に何を指すか、そして何をもってソフト・パワーの保持と考えるかを別にすれば、各国が一定のソフト・パワーを持っていること、そしてそれを自らの国で守るべきこと、国力の一部であることを理解しているだろう。これを国際政治、外交上で重視すべきだと考えたのはナイが初めてだが、ある意味ではそれ以前も各国はこうしたことをある程度考慮していたはずである。
(2)ハード・パワーとの比較
このソフト・パワーは言うまでもなくハード・パワーに対する概念である。ハード・パワーとは主に軍事力と経済力を指しており、いわゆる「パワー」という概念はもっぱらこのハード・パワーのことを指して用いられてきた。ソフト・パワーとハード・パワーの関係については以下のような「3種類の力」という表で説明している。(62ページ)
|
行動 |
主要な手段 |
政府の政策 |
軍事力 |
強制
抑止
保護 |
威嚇
軍事力 |
威嚇外交
戦争
同盟 |
経済力 |
誘導
強制 |
報酬支払い
制裁 |
援助
賄賂
制裁 |
ソフト・パワー |
魅力
課題設定 |
価値観
文化
政策
制度 |
広報外交
二国間・多国間の外交 |
(3)ソフト・パワーという考え方の問題点
ただソフト・パワーという考え方には問題もある。まず、ナイ自身が言う通り、「ソフト・パワーはハード・パワーほどには政府が管理できるわけではない」(39ページ)という。ソフト・パワーの源泉の多くは政府から独立しており、政府の目標に部分的に反応するにすぎないというのである。
また、「ソフト・パワーの源泉はハード・パワーの源泉とくらべて、時間がかり、効果が拡散し、活用するのが難しい」(159ページ)ともいう。
さらに問題となるのは、ある国家がどのくらいのソフト・パワーを持っているかを計測することができない点である。日本語版「ソフト・パワー」の「解説」で春原剛が述べている通り「ハード・パワーが軍事力に代表される目に見える力、あるいは定量的なものだとすれば、ソフト・パワーはその国自身が内面から醸し出す魅力、目に見えない力、そして計測不可能なものである」(229ページ)。
つまり、ハード・パワーの場合、軍事力であれば戦艦や戦闘機などの数、兵士の数、軍事費の額などで、ある程度その規模を数値で表すことができる。経済力であればGDPとか外貨準備高、貿易額などでその国のパワーはある程度わかる。そしてそれらを見ればある国と別の国のパワーの量をある程度比較することもできる。
しかしソフト・パワーはそうはいかない。
倉田保雄は以下のように述べている。
「ソフト・パワーの検証は容易ではない。可視的でない理論の有効性は、それに反する結果が発生したことを受け、「有効でなかったこと」により初めて判明する。このような理論の検証には「反実仮想」の方法が用いられるが、抑止理論の実効性と同様、確定的な判断は困難であろう」(倉田保雄(2011)「ソフト・パワーの活用とその課題 ~理論、我が国の源泉の状況を踏まえて~」参議院事務局企画調整室編『立法と調査』(320), p.119-p.138)
そのうえで倉田は以下のようにも述べている。
「世論調査の推移と政策目標の実現の関係を検証することにより、ソフト・パワーの効果をある程度推測できるにしても、ソフト・パワー自体を数値化することはできない。この点、国の魅力を測る最近の試みとして注目されているのが、「国家ブランド指数」である。これは、ある国の、①輸出、②ガバナンス、③文化と遺産、④国民、⑤観光、⑥投資及び移民、の各指標についての評価を総合して順位を出すものであり、有用な試みである」(倉田前掲書)
ソフト・パワー計測の方法についてナイ自身は世論調査(44ページなど)などについて少し触れているが、詳しくは述べていない。計測不能であることは自明だと考えているのかもしれない。
その計測方法などを考えることは本稿の目標ではないし、筆者の能力を超えた課題であるから詳しく触れることはしない。ただ、筆者は会計学で言う「のれん代」の評価方法はヒントになるのではないかと考えている。
のれん代とは企業が保有する無形固定資産のことであり、ブランド力や技術力、ノウハウなどを指す。
これを貸借対照表には「のれん」として記載することになっている。これを評価し計算する方法は以下のとおりである。
「企業を買収する際は、買収する企業の純資産に加えて「のれん代」がかかるとされており、買収で支払った金額と買収先企業の純資産との差額ともいえます」(大和証券 金融・証券用語解説「のれん代」 https://www.daiwa.jp/glossary/YST1486.html)
こののれん代は具体的には、ブランド、知名度、競争力、信用力、技術、ノウハウ、人材、組織、企業文化、社風、物流商流、取引先との関係、市場シェア、売上規模、顧客リスト、特定市場の独占などが含まれると言われる。これをざっと見るだけで、ソフト・パワーと通じるものがあるように思える。
こののれん代の計算からの類推で考えるなら、実際の経済力(例えばGDP)とその国の評価額(例えば格付けの点数)の差額を見れば、その差が大きい国ほどソフト・パワーが大きいと考えることができるように思う。