中国について調べたことを書いています

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4.浦東新区から雄安新区へ
5.尖閣問題の解決策を探る
6,台湾は国家か

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参考文献


小原雅博(2007)「国益と外交 世界システムと日本の戦略」日本経済新聞出版社

小原雅博(2018)「日本の国益」講談社現代新書

海部俊樹(2010)「政治とカネ 海部俊樹回顧録」新潮新書

田中洋(2002)「企業を高めるブランド戦略」講談社現代新書

内閣府・財団法人日本総合研究所(2000)「国際経済協力の効率化のための官民パートナーシップの検討調査」報告書

渡辺靖(2011)「文化と外交 パブリック・ディプロマシーの時代」中公新書

モーゲンソー (2013)「国際政治 権力と平和」(原彬久監訳)岩波文庫

ジョセフS・ナイ(2004)「ソフト・パワー 21世紀国際政治を制する見えざる力」(山岡洋一訳)日本経済新聞社

ジョセフS・ナイ(2011)「スマート・パワー 21世紀を支配する新しい力」(山岡洋一・藤島京子訳)日本経済新聞社

 

 4.国益に「尊敬・好意」を加えると何が変わるのか

今回、国益定義に「尊敬・好意」が加えられたが、このことによって何が変わるかを検討してみたい。ただ、最初に述べておくが、これによって何か日本の外交が大きく変わることはないと思われる。

なぜなら、現実の問題としてこの定義を参考にして日本の国益を考え直そうという議論になるとは思えないからである。また、この定義があろうがなかろうが、ソフト・パワーを全く無視して外交を考えている人もいないと思われる。

この国益定義は閣議決定で決められた。国会の議論を通じて決まったものではない。当然この国益定義も国会の場で議論されて決まったものではない。

また、この「国家安全保障戦略」文書は他の2文書とともに防衛3文書として発表された。いわゆる反撃能力の保有と防衛費のGDP2パーセントまでの増額が話題になっており、これらについては国会で議論がなされている。日本の外交政策の大転換となるものであり、大きな話題になったのは当然ともいえる。しかしそれに対して、国益定義の変更はほぼ無視されていると言ってもいいような扱いである。

ただ、それもある意味では当然なのである。

今回の国益定義の変更について御厨貴は以下のように述べている。

「国益論を始めたら、それをどう守るかの手段になる。赤字国債か増税かの対立のほか、自衛隊の位置づけなど憲法改正の議論にも及ぶ」(日本経済新聞「国益とは何か 議論深まらなかった77年」20221223日)それゆえ、「自民党は国益論から逃げたと言われても仕方がない」というのである。国家安全保障に国益定義は必要だが、それについて議論はしたくないということだろうか。あるは、反撃能力や防衛費増額のようなわかりやすい話題ではないため、議論しにくいのだろうか。

 

ともあれ、本稿では「尊敬・好意」が加えられたことを重視している。そして、これにより何が変わるかということを検討しておこうと思う。

 

(1)領土など死活的国益に加えて、既存価値としての「尊敬・好意」も守らなければならないということ

これは、「尊敬・好意」が損なわれないように努力しなければならないということである。しかし、この「尊敬・好意」は計測できないものである。失ってみて初めてわかるというようなものである。それでも守らなければならない。では、何を目標として設定すればよいだろうか。

これは日本に関心を持つ人の数とか世論調査や各種ランキングに注目するしかないだろう。

比較的わかりやすいのは訪日観光客数や留学生数などである。また、文化関連で言えば、世界的な音楽賞、映画賞、文学賞などや、大学ランキング、オリンピックのメダル数、ノーベル賞やフィールズ賞などの学術的な賞などなどである。こうしたものに目を光らせ、これらで高い評価を受けていれば、それを継続させることが必要となろう。政治的、外交的な面でいえば、日本が常々発信している「民主主義」「法の支配」「非核三原則」「専守防衛」「戦争放棄」「自由で開かれたインド太平洋」などと言った言葉に反するようなことをしてはいけないということでもある。

 

(2)外交政策の選択時に、尊敬・好意を考慮に入れて判断しなければならないということ。

これは文字通りであり、外交政策の選択がいままでより難しくなるということである。複数の選択肢がある場合、政治的立場や、経済的な価値だけで決めるのではなく、関係国の日本観を考えなければならない。空気を読まなくてはならない。

これは尖閣問題を例にして考えておこう。

当ブログでは、以前尖閣問題の解決策を考えてみた。

 

  https://ameblo.jp/kaiganressha/entry-12670926002.html

 

その際、戦争、実効支配の強化、共同開発、交渉で解決、国際司法裁判所提訴、譲渡、新棚上げ、現状維持といった解決策を挙げ、どれが最も国益を最大化できるかを検討した。

もちろん、当時は「尊敬・好意」が含まれていない定義を使用して検討した。

今回、「尊敬・好意」が追加されたのだから、これも考慮して検討し直さなければならない。それをきちんとやることは、今はしない。そのかわり、だいたいどんなことになるのかをざっと考えておく。

ひとつだけはっきりしていることがある。それは戦争、実効支配の強化といった案は、前回と同様今回も否定的になるということである。前回否定的に評価したのは、リスクが大きすぎること、それに見合うパワー(これはもちろんハード・パワーを指す)が足りないという理由であった。

今回「尊敬・好意」を考え合わせると、もし戦争という方策を選択すれば、間違いなく中国の親日派、知日派、日本ファンを減らすことになるため、やはり戦争や武力行使につながるような解決案は低い点数を付けざるを得ない。また、専守防衛や戦争放棄などの政治的価値観に大きく反する政策をとることは、それは日本の政策に対する不信感につながる。つまり尊敬されなくなり、好意を持って受け取られなくなるということである。

今まで以上にそういう案は採用しにくくなるだろう。

 

(3)その他

上記以外に、尊敬・好意を守れるだけのパワー(ソフト・パワー、またはハード・パワー)が必要であることを指摘しておく。文化に関して言えば、それを守れるだけのソフト・パワーが必要となる。具体的に何をもって文化関係のソフト・パワーというかはここでは議論をしないが、領土を守るのにハード・パワーが必要であるのと同様に、尊敬・好意を守るためにはソフト・パワーが必要である。

さらにパブリック・ディプロマシーの重要性が高まることも意味する。パブリック・ディプロマシーとは広報外交とも訳される。2の(2)でナイの「3種の力」の表のソフト・パワーの「政府の政策」欄にあったことばである。「パブリック・ディプロマシー」とは、外務省ホームページの説明では「伝統的な政府対政府の外交とは異なり,広報や文化交流を通じて,民間とも連携しながら,外国の国民や世論に直接働きかける外交活動のこと」だという。(外務省:https://www.mofa.go.jp/mofaj/comment/faq/culture/gaiko.html )

通常のディプロマシー、つまり外交においては、主要なアクターは政府の外交部門である。何か外国と話し合ったり決めたりする場合、政府対政府で行う。日本であれば政府と外務省である。ここに一般の国民が関与することはない。それに対してパブリック・ディプロマシーは、日本の政府や外務省が、他国の国民に直接話しかけたり、情報を提供したり、交流を測ったりする。そのことで、親日派、知日派、日本ファンをふやそうというのである。その源泉となるのがソフト・パワーであるのは言うまでもない。

 今回、国益に「尊敬・好意」を加えたことで、パブリック・ディプロマシーの重要性が高まるのではないか。

(2)国益という言葉の使われ方の二側面(「既存価値」と「判断基準」)

次に、国益という言葉がどのように使われているかを考えてみよう。

表1は国会の議事で、国益という言葉がどのような言葉(主に動詞)とともに何回使われたかを数え、年代別にまとめたものである。

 

表1 国会の議事録における「国益」という言葉の使われ方  (単位:回)

 

出所:国会会議録検索システムにより、筆者が作成。

注)動詞は活用語尾を省いて検索。したがって「国益考えない」など助詞が異なるもの、「国益を大きく損なう」など副詞等が挟まるものは「その他」に含まれる。

「国益を追求」「国益を実現」「国益を確保」は助詞を省いたものも含む。

 

これについて以下2点の指摘をしておく。

1つめは「国益を守る」「国益を損なう」が、年代に関わらず高頻度で使われていることである。「国益を守る」というのは、主に領土や国民の生命・財産のような「既存の価値」を守るということである。これが年代に関わらず多く使われているのはよく理解できることである。

2つめは「国益にかなう」「国益を考える」が1990年以降増加していることである。「国益にかなう」という言い方がされるのは、何らかの意志決定をなす際に判断基準として国益を使用している場面が多い。そして、「国益にかなう」という言い方、つまり判断基準としての使い方が1990年代以降に増えたのは、冷戦終結後の国際情勢の混迷があったからだろう。冷戦期、日本は日米安保条約の下で軽軍備・経済発展重視の政策をとったことで、国益という観点で重大な外交的意志決定をしなければならない場面は限られることになった。例えば、ベトナム戦争への自衛隊派遣が日本の国益にかなうかという議論がなされることはなかった。ところが、冷戦が終結し国際的な混迷が始まると、自衛隊の海外派遣など、外交政策を大きく転換するような判断をしなければならない場面が出現した。その際に判断基準としての国益を考えざるを得なくなり、「国益にかなう」という言い方が増えたと思われる。その結果、国益をきちんと定義しておくことが必要になり、2013年の「国家安全保障戦略」で明記されたということになろう。もとより、外交や政治における判断に国益が基準になるというのは、モーゲンソー(2013,p56)が指摘していることでもある。

 

ここから、国益には「既存の価値」「判断基準」という2つの側面があることがわかる。

 

①既存の価値

ビジネスの世界では、ヒト・モノ・カネと並んで、ブランドも一つの資産であると考えられている。国際社会での日本ブランドも日本の保有している資産だと考えてもよい。つまりソフト・パワーの源泉である。

ある国や人が同じような品質の製品の中から「MADE IN JAPAN」を選ぶのは、日本製品を選べば品質の面で間違いないという信頼があるからだろう。この信頼はこれまで日本の企業や多くの日本人が提供してきた製品やサービスなどの総体的な経済的な価値に対する信頼に基づくものといえる。また、各国が、日本が国連安全保障理事会の理事になることを承認するのは、国連の中で日本が相応の貢献をしてきたという信頼があるからだろう。オリンピックの開催地として東京が選ばれたこと、世界で最も平和な国といったランキングで日本が上位にランクされていることなども日本が平和国家として信頼・尊敬され好意を持たれていることと関係があるだろう。戦後、日本は各国との信頼関係を築き上げ、それを維持することで国際社会の中で日本ブランドを築き上げ、尊敬されるようになってきた。多くの日本人はそのことを誇りに思い、名誉だと感じてもいる。

また、1990年以降の国際的情勢は安定性や透明性が低く、不確実な状況が続いている。北朝鮮や国際的テロ組織の情勢などを見れば、こうした状況は今後も続くことが予想される。また、日本自身も隣接する国との国境問題などを抱えている。そんななかで、日本が国際社会での日本ブランド、尊敬・好意を守ることの重要性は更に高まる。尊敬・好意が最も必要とされるのは社会的な不確実性が大きい状況だからである。

国際社会からの信頼・尊敬は、国際秩序という広範な概念よりも、切実な日本の国益というのにふさわしい。

 

②判断基準

外交とは国益を追求することであるため、ともすれば国家は利己的な行動に走りがちである。しかし、現在の国際社会では、自国の平和と安全を自国一国だけで守ることはできない。必ず国際社会のことを考えなければならない。そのことを考えると、何らかの外交問題で選択や判断を迫られたとき、各国からの尊敬や好意を判断基準に加えることは、利己的で独善的な選択を回避する機能を果たすことになる。尊敬されず好意も持たれない中での外交は非常に困難となろう。それを避けるためには、国際社会の秩序を考えるだけでは不十分で、国際社会からの尊敬や好意の考慮が不可欠である。一見国益にかなわないように見える選択も、相手国の尊敬を得るという視点で見れば国益にかなうということもある。ODAなどはその典型である。

また、こうした基準で外交問題を処理するのだと判断基準を内外に公開することは、透明性・予見可能性を提供することにもなる。それは、信頼感を与えるきっかけになり、尊敬や行為につながる。

実際にこれまでも重要な外交問題での判断では、信頼・尊敬や行為が判断基準にされてきた。たとえば、湾岸戦争で日本は130億円の資金援助をしたが、海部首相(当時)はその理由の説明に、西側諸国に対する「恩義」という言葉を使っている(海部2010p123)。このとき、西側諸国から受けた恩義を返すことによって日本が得たものは信頼だったとはいえないだろうか。また、湾岸戦争終結後、クウェートの出した感謝広告に日本の名前がなかったことを「日本外交の敗北」などと言うことがある。このとき、日本が失ったと感じたものは、やはり信頼や尊敬だったのではないか。このことが自衛隊の海外派遣という日本外交政策の大きな転換点となるような決断をもたらしたことを考えれば、これまでも判断基準のなかで信頼や尊敬・好意が大きな位置を占めていたことは間違いない。これを国益の定義に加えることは、現状に沿ったものだと言えよう。

 

3.国益とは

 

(1)そもそも国の利益とは何なのか

国益(national interest)とは何かという問いに対する答えは様々である。国益とは文字通り国の利益である。しかし、これ以上の定義はきわめて難しい。

国益の問題は、国家とは何かという問いに直結している。国際法では一般に国家の要件として、(a)永続的住民、(b)明確な領域、(c)政府、(d)他国と関係を取り結ぶ能力の4つが挙げられる(モンテビデオ条約第1条)。これらの条件を欠くものは国家として認められない。現在国家として認められている「政治的実体」は、これらを何としてでも守らなければならない。したがって、これらを守ることが国家の利益であることは異論がないだろう。国民の生命・財産、領土、中央政府がこれに当たる。これを「死活的国益」などと呼ぶこともある。最狭義の国益ということもできよう。

しかし、実際にこれが何を指すか、何が最重要かという議論になると、急に異論が出てくることになる。

まず、もっともわかりやすい例として離島を考えてみよう。

日本には何千という島がある。総務省統計局「日本統計年鑑」(令和5年)を見ると「構成島数」は6852となっている。これらすべてが日本の領土であることは間違いない。しかしこれらのすべてが死活的かというとそうでもない。例えば2021219日の読売新聞は「国境の2離島が消失か、存在を確認できず…領海に影響する恐れ」と報じた。(https://www.yomiuri.co.jp/national/20210218-OYT1T50081/

記事によると「全国に480超ある「国境離島」のうち、少なくとも2島について消失した可能性のあることがわかった」という。この2島は北海道にある面積百数十平方メートルの「節婦南小島」と「汐首岬南小島」で、節婦南小島は、2018年の北海道地震による地形変化で、海中に沈んだ可能性があり、函館市沖約100メートルの汐首岬南小島は、対岸の陸地で護岸を築いた時に島が組み込まれたとみられるという。しかしこれが大きなニュースになることはなかった。いずれも領海の基点となっており、領海範囲に影響する恐れがあるにもかかわらず、である。一方、東京都に属する沖ノ鳥島は、無人島であり先の2島より面積ははるかに小さいにもかかわらず周囲をコンクリートで固め、水没しないように堅く守られている。もしこの島が消失したら重大な国益が失われたと大きなニュースになるだろう。つまり、国境にある国益に直結する島でも、島によって重要度は異なる。もし6852の島のすべてに優先順位をつけようとすれば、様々な思惑が絡む大議論になってしまうだろう。

 国民の生命・財産についても、全ての国民が死活的国益であることは間違いない。が、現実としては時と場合によってそれを守るレベルには差が出てくる。例えば、二重国籍を持つ人の中には日本へ来たことがない人もいる。その人の生命・財産が日本の国益であることは間違いないが、実際にそれが日本国内で生活している人と同じレベルで守るべきだという議論があれば、紛糾は避けられないだろう。また、外務省が危険レベルを「退避勧告」としている国に単身滞在している人の生命・財産と、日本国内で生活している人の生命・財産とを比べてみた場合も同じである。

また、国益はパワーとも深い関係がある。これも離島を考えてみればすぐわかる。6852の島すべてに沖ノ鳥島と同様の方法で水没を避ける設備を設けることは経済的に不可能である。海外在住の二重国籍のすべての日本人を日本在住の日本人と同様に守るために警察や自衛隊を派遣することは日本のパワーの限界を超えている。

 

以上のことからわかるとおり、国益を考える場合、重要度による分類が欠かせない。先に死活的国益を再狭義の国益としたが、狭義の国益、広義の国益も考えておく必要がある。また、「死活的国益」に対して何と呼ぶかも問題になる。

国益の分類には「死活的利益 (survival interest)」「絶対的利益 (vital interest)」「主要利益 (major interest)」「外辺的利益 (peripheral interest)」という4段階に分類するものや、自己保存的な利益である「不変的国益」と時代や状況に応じて変化する利益である「可変的国益」という2分類(ハンス・モーゲンソー)もある。

小原雅博(「国益と外交」日本経済新聞社、2007年、p149-p158)は、具体的国益を以下の4つの基準で「死活的利益」「二次的利益」「抑制すべき利益」の3段階に分類している。

①一部の利益でなく国民全体の利益か(全体性)

②一時的な利益でなく持続的な利益か(持続性)

③直接の影響を及ぼす利益か、(直接性)

④国際社会の利益と両立し得る利益か(両立性)

の4つである。

 

小原は以下のような表にまとめて、その評価基準を示している。

 

基準

概要

国益

具体例

 

分野

全体性

全体

国際社会

A

日本の繁栄

多角的自由貿易体制(WTО)の維持・強化

国家

A

日本の繁栄

二国間経済連携協定(EPA)の推進

部分

C

日本の繁栄

日本農業の保護措置

持続性

持続的

A

日本の安全と繁栄

中国の改革・開放の支援

不確実

B

日本の理念や価値

中国の人権状況の改善

直接性

直接的

A

日本の安全

北朝鮮の核問題の解決

間接的

B

日本の安全

イランの核問題の解決

両立性

互恵的

A

日本の安全

核不拡散

日本の繁栄

EPAの推進

対立的

C

日本の安全

日本の核武装

日本の繁栄

農産品や労働市場の不開放

注:A:死活的利益   B:二次的利益  C:抑制すべき利益

 

出所:小原雅博「国益と外交」149ページ

 

2.ソフト・パワーとは

今回の変更で、本稿では特に「尊敬・好意」について検討したい。特に「ソフト・パワー」との関係を検討してみたい。まず、ソフト・パワーとは何かを確認しておく。

 

(1)ソフト・パワーとは

ソフト・パワーというのはジョセフ・ナイが提唱し始めた概念である。

ナイはその著書「ソフト・パワー」(Soft Power: The Means To Success In World Politics)で様々な表現でソフト・パワーを説明しているが、もっともわかりやすいのは「ソフト・パワーは他人を引き付ける魅力」(27ページ)だという説明だろう。あるいは「自国が望む結果を他国も望むようにする力であり、他国を無理やり従わせるのではなく、味方につける力である」(26ページ)とも言っている。そして、「単純化するなら、ソフト・パワーとは行動という面で見れば、魅力の力である。力の源泉という面でみれば、ソフト・パワーの源泉はそうした魅力を生み出すものである」(27ページ)のだという。

ナイはまた、ソフト・パワーの源泉は「第一が文化であり、他国がその国の文化に魅力を感じることが条件になる。第二が政治的な価値観であり、国内と国外でその価値観に恥じない行動をとっていることが条件になる。第三が外交政策であり、正当で敬意を払われるべきものとみられていることが条件になる」(34ページ)という。

この説明を見れば、2022年版の国益定義の「尊敬・好意」という言葉がソフト・パワーという概念を意識したものであることは明らかだろう。

 

ごく簡単に具体例を挙げておく。第一の「文化」だが、これは文学、絵画、音楽などの芸術分野、自然科学、人文科学、社会科学など学術分野、スポーツ分野など幅広い。第二の「政治的価値観に恥じない行動」というのは、日本であれば立憲君主制、民主主義、自由主義など、あるいは三権分立、法の支配、基本的人権の尊重、普通選挙、二院制などと言ったことが守られているかということだろう。第三の「外交」は、日本であれば非核三原則、専守防衛、アメリカとの同盟関係、戦争放棄、戦力の不保持、国連の重視などといったことだろう。

こうしたものを日本以外の国が認め、日本を尊敬し、日本に好意を持つ人が増えれば、それが日本のソフト・パワーということになる。

 

ナイによれば、彼がこの概念を初めて使ったのは1990年に刊行された「不滅の大国アメリカ」(Bound to lead : the changing nature of American power)であるという。この概念を掘り下げ、発展させることを目的に書かれたのが2004年の「ソフト・パワー」である。

その後、ソフト・パワーの考え方は、おおむね世界に受け入れられていると思われる。ソフト・パワーというものが具体的に何を指すか、そして何をもってソフト・パワーの保持と考えるかを別にすれば、各国が一定のソフト・パワーを持っていること、そしてそれを自らの国で守るべきこと、国力の一部であることを理解しているだろう。これを国際政治、外交上で重視すべきだと考えたのはナイが初めてだが、ある意味ではそれ以前も各国はこうしたことをある程度考慮していたはずである。

 

(2)ハード・パワーとの比較

このソフト・パワーは言うまでもなくハード・パワーに対する概念である。ハード・パワーとは主に軍事力と経済力を指しており、いわゆる「パワー」という概念はもっぱらこのハード・パワーのことを指して用いられてきた。ソフト・パワーとハード・パワーの関係については以下のような「3種類の力」という表で説明している。(62ページ)

 

 

行動

主要な手段

政府の政策

軍事力

強制

抑止

保護

威嚇

軍事力

威嚇外交

戦争

同盟

経済力

誘導

強制

報酬支払い

制裁

援助

賄賂

制裁

ソフト・パワー

魅力

課題設定

価値観

文化

政策

制度

広報外交

二国間・多国間の外交

 

(3)ソフト・パワーという考え方の問題点

ただソフト・パワーという考え方には問題もある。まず、ナイ自身が言う通り、「ソフト・パワーはハード・パワーほどには政府が管理できるわけではない」(39ページ)という。ソフト・パワーの源泉の多くは政府から独立しており、政府の目標に部分的に反応するにすぎないというのである。

また、「ソフト・パワーの源泉はハード・パワーの源泉とくらべて、時間がかり、効果が拡散し、活用するのが難しい」(159ページ)ともいう。

 

さらに問題となるのは、ある国家がどのくらいのソフト・パワーを持っているかを計測することができない点である。日本語版「ソフト・パワー」の「解説」で春原剛が述べている通り「ハード・パワーが軍事力に代表される目に見える力、あるいは定量的なものだとすれば、ソフト・パワーはその国自身が内面から醸し出す魅力、目に見えない力、そして計測不可能なものである」(229ページ)。

つまり、ハード・パワーの場合、軍事力であれば戦艦や戦闘機などの数、兵士の数、軍事費の額などで、ある程度その規模を数値で表すことができる。経済力であればGDPとか外貨準備高、貿易額などでその国のパワーはある程度わかる。そしてそれらを見ればある国と別の国のパワーの量をある程度比較することもできる。

しかしソフト・パワーはそうはいかない。

 

倉田保雄は以下のように述べている。

「ソフト・パワーの検証は容易ではない。可視的でない理論の有効性は、それに反する結果が発生したことを受け、「有効でなかったこと」により初めて判明する。このような理論の検証には「反実仮想」の方法が用いられるが、抑止理論の実効性と同様、確定的な判断は困難であろう」(倉田保雄(2011)「ソフト・パワーの活用とその課題 ~理論、我が国の源泉の状況を踏まえて~」参議院事務局企画調整室編立法と調査(320), p.119-p.138

 

そのうえで倉田は以下のようにも述べている。

「世論調査の推移と政策目標の実現の関係を検証することにより、ソフト・パワーの効果をある程度推測できるにしても、ソフト・パワー自体を数値化することはできない。この点、国の魅力を測る最近の試みとして注目されているのが、「国家ブランド指数」である。これは、ある国の、①輸出、②ガバナンス、③文化と遺産、④国民、⑤観光、⑥投資及び移民、の各指標についての評価を総合して順位を出すものであり、有用な試みである」(倉田前掲書)

ソフト・パワー計測の方法についてナイ自身は世論調査(44ページなど)などについて少し触れているが、詳しくは述べていない。計測不能であることは自明だと考えているのかもしれない。

 

その計測方法などを考えることは本稿の目標ではないし、筆者の能力を超えた課題であるから詳しく触れることはしない。ただ、筆者は会計学で言う「のれん代」の評価方法はヒントになるのではないかと考えている。

のれん代とは企業が保有する無形固定資産のことであり、ブランド力や技術力、ノウハウなどを指す。

これを貸借対照表には「のれん」として記載することになっている。これを評価し計算する方法は以下のとおりである。

「企業を買収する際は、買収する企業の純資産に加えて「のれん代」がかかるとされており、買収で支払った金額と買収先企業の純資産との差額ともいえます」(大和証券 金融・証券用語解説「のれん代」 https://www.daiwa.jp/glossary/YST1486.html

こののれん代は具体的には、ブランド、知名度、競争力、信用力、技術、ノウハウ、人材、組織、企業文化、社風、物流商流、取引先との関係、市場シェア、売上規模、顧客リスト、特定市場の独占などが含まれると言われる。これをざっと見るだけで、ソフト・パワーと通じるものがあるように思える。

こののれん代の計算からの類推で考えるなら、実際の経済力(例えばGDP)とその国の評価額(例えば格付けの点数)の差額を見れば、その差が大きい国ほどソフト・パワーが大きいと考えることができるように思う。