吉備巡礼④ 「月の輪古墳」 | かいぞうのブログ

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月の輪古墳  [久米郡美咲町飯岡字主馬ノ奥]

吉井川と吉野川の合流点を見下ろす海抜約320m(高さ270m)の太平山の頂きにあり、自然地形を利用した径61m×57m、高さ9mの造出(つくりだし)付き円墳。
4世紀末~5世紀初頭に築造されたと考えられている。

 

 

二段に築いた墳丘斜面を葺石(ふきいし)で覆い、墳頂、段平坦部、墳裾にそれぞれ埴輪を配す。墳丘北面に造出(つくりだし)が付き、埋葬施設として、墳頂に割竹(わりだけ)形木棺を内包する粘土槨(ねんどかく)2基,造り出しに1基の粘土槨を持つ。墳頂2基の粘土槨からは、男女の人骨の他、短甲などの武器、武具、農工具、銅鏃(どうぞく)、石釧(いしくしろ)、鏡、玉、櫛、針、銅鏡、装身具など数多くの副葬品が出土している。

 

 

      

 

月の輪古墳の発掘調査は、世界大戦敗退後の復興期、岡山大学助手(当時)の近藤義郎を中心に1953年8月~12月にかけて、村内外の住民、考古学研究者、小・中・高校の生徒ならびに教員や大学生など、延べ一万人もの人たちが協力して行われ、学問的にも教育上にも、また住民運動の面でも大きな成果をあげ戦後の国民的科学運動の実践となった。

 

   (現地見学者に古墳の説明をする近藤義郎先生 1953年

 

 

この地は、古墳時代には沖積平野の水田化が進み平地の開墾という事業が進められ、また、地の利を利用した水運業も発達し、人々の集団を結合させる役割を担った首長が存在したと考えられる。そして、集団の結合が首長墳として現れる。首長墳と思われる月の輪古墳を含む地域に古墳が集中しており、22基知られている。

 

 

そのうち15基は後期古墳に推定される小墳、2基は時期不明で箱式石棺をもつ小墳、5基は、その内の1基ははっきりしないが、4基は前期と考えられ、比較的大型で、山頂や尾根上に位置している。そのうち、特に月の輪古墳と釜の上古墳が大きい。

 

 

昭和34年(1959年)、月の輪古墳が岡山県指定史跡に指定。
昭和59年(1984年)、出土品が岡山県指定重要文化財(考古資料)に指定。

 

            [月の輪古墳墳頂からの飯岡・周匝風景の今と昔]

 

飯岡地区では毎年8月15日頃「月の輪踊りの夕べ」を開催し、
盆祭りのなかで月の輪古墳発掘調査を記念している。

 

 

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《雑感》

 

・1953年に行われた、この官民一体となった古墳発掘調査。

実は、我が母が中学生だった時の事で、母も志願して発掘を手伝ったのでした。

  今でも母は、この時の記憶が鮮明で、真夏の炎天下の下、一時間かけて太平山に登り、竹べら片手に一心に土掘りをしたらしい。

  発掘にかかる費用も、多くを周辺地域の人々や有志の者が負担していて、母もアイスクリームの売り子の手伝いをしながら得た僅かな給金を寄付していたそうだ。

  その甲斐あってか、発掘事業は見事に完遂され、当時、全国的な話題となった。後に映画も作られたらしい。

 

 平成15年の10月には、発掘50周年記念祭が催され、母も嬉しそうに出掛けていったのを覚えている。

 

 まさか今になって、わしが月の輪古墳を調べて、こうして文章を書くという機会がくるとは想像もしなかったんじゃないかな? これも“縁”だったんでしょう。(笑)
 

 

・月の輪古墳の埋葬者。わしなりの推定だが、記事②でも触れた、当時この地域を治めていた海部族と縁のある人だったであろうと確信します! だから、海人族ゆえに、山方の地に航海守護の宗像神をお祀りしたのでしょうね。(*^^*)