[平賀元義](1800~1865)
明治時代を代表する俳人・歌人である正岡子規は「万葉以後一千年の久しき間に万葉の真価を認めて万葉を模倣し、万葉調の歌を世に残したる者、実に備前の歌人平賀元義一人のみ、…」と激賞し、自らの晩年、病の床にて
「血を吐きし 病の床の つれづれに 元義の歌 よめばうれしも」
の歌を残した。
[略歴]
寛政十二年(1800)、平賀元義は岡山藩陪臣平尾新兵衛長春の非嫡出子として生まれる。
天保三年(1832)訳あって脱藩し、平賀左衛門太郎源元義と名乗り、備前・備中・美作などを放浪し、多くの万葉調の歌を作った。ただし、みずから本領は古学にあり和歌は余技にすぎないと称し独学で神典や国学を研究し、吉備の古社も熱心に調査した。
また書も能くした。他面、性格は奔放純情で潔癖症であるが、酒好きで奇行も多かったとも伝わる。
安政四年(1857)、美作の飯岡村に楯之舎(たてのや)塾を開き、国学の傍ら万葉調の和歌を門人に指導したが、理由は明らかではないが(おそらく経済的な理由で)二年余りで閉鎖を余儀なくされる。
生粋の尊皇攘夷思想の持ち主で、塾の門人の中には、熊野意宇麿(くまのおうまろ)のように攘夷志士として名を残す者も出た。
<盾之舎塾跡地にある記念歌碑>
妻子は得ていたものの経済的には生涯不遇で、安住の家も無く、歌の弟子や門人宅を妻子共々転々として過ごした。
晩年にしてようやく脱藩の罪を許され、さらにその学才を認められ藩主池田茂政の下へ仕官先が決まった。また、黒住教の行司所から顧問として迎えられる事も決まり、前途に光が見えるようになる。 その頃の歌。
『きはまりて 貧しき我も 立ち返り 富たりゆかむ 春ぞ来向ふ』
そうした幸せを目前にした矢先の慶応元年12月28日、門人宅へ向かう途上、上道郡大多羅(おおだら)村の長利の村外れの路傍で卒中のため急死す。 享年六十六。
生前は無名に等しかったが、明治時代になって羽生永明により初めて世に紹介され、それが正岡子規の目に止まり激賞を受け、万葉調歌人として広く知られるようになる。
元義自らは歌集を残さなかったが、後に岡山の歌人らによって編集され、明治三十九年(1906)に「平賀元義歌集」が初めて刊行された。
国学関係の著書には『出雲風土記考』『美作神社考』『備前続風土記』などがある。
姓「平賀」は先祖が信濃国佐久郡平賀村に居住していたので名乗っていたが、元義から12代祖の平賀義種が是里の本村(ほむら)にある山鳥城に在城し守護代の浦上家に仕えていた。
したがってこの地は元義にはとても所縁の深い場所である。
現在、飯岡の盾乃舎塾跡地には元義の歌碑が立っている。
歌碑の歌
『山風に 河風そひて 飯岡の 坂田の御田は 涼しかりけれ』
ここからは月の輪古墳を見上げることができる。
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《雑感》
・元義って人は ほんと変わった人やね。伝記読んでると思わず笑ってしまうような行動を天然でやっちゃってるって感じ。 純粋で親思いで優しいとこもあって、女好きで、酒好きで、背も高くて、全然悪い人じゃないんだけど、ちょっと友達にするには勇気の要る人な感じ。笑
・元義の門下生で、出雲国出身の熊野意宇麿(くまのおうまろ)は、塾を出た後、但馬国生野(現兵庫県朝来市生野)で起こった“生野の変”
に反幕尊王攘夷の志士として参加したとされている。
この舞台となった生野や山口護国神社は、わしのモロ地元で、小学生の時分なんか普段の遊び場だったんよなぁ…(遠い目)
そうそう、生野の変とは、1863年(文久3)10月、尊皇攘夷派が、
但馬生野に挙兵して生野代官所を占拠した事件。
その事件の前年より但馬地方では、攘夷を名目として北垣晋太郎、中島太郎兵衛ら豪農を中心とする農兵組織計画が進められていた。
この動きと、薩摩藩美玉三平、福岡藩平野国臣ら脱藩浪士とが結びつき、次第に浪士たちが主導権をとって挙兵にもちこむ。
盟主として七卿落ちの一人 沢宣嘉(のぶよし)を擁し、農民200人、長州藩の河上弥市ら奇兵隊士11人も加わり、10月12日未明に代官所を占拠。
しかし、姫路・出石など隣藩の藩兵が鎮圧に動くと、反乱軍は内部で分裂を起し、農民も離反して逆に彼らはその攻撃を受け、美玉、河上らは妙見山麓(現朝来市山口・山口護国神社)にて戦死または自刃し、平野は就縛、投獄された(後の禁門の変の際に獄舎で殺害)。
変は3日間で終わったものの、天誅組の変とともに倒幕挙兵の先駆けとされていて、この変における下士、浪士、地主、豪農および一般農民層の動向は、天誅組の挙兵とともに明治維新の導火線となったと評価されているようです。
・・さて、件の元義門下生で出雲出身の「熊野意宇麿(くまのおうまろ)」という若者。最初見知った時『何か変な名前~』って感じた(失敬^^;)んだけど、その後いろいろ調べてみたのだが、この名前は生野の変に見つけられません。
んで、最初の印象で持った違和感から、もしかしたら熊野意宇麿って、偽名…ってかニックネームみたいなものなんじゃないかな?って。
だって名前を分解してみると「熊野」「意宇」「麿」だよね。で、出雲で熊野といえば、古代史ファンなら『熊野大社』って思い浮かぶよね。で、その熊野大社が在る地が『意宇郡』。「麿(麻呂)」は、公家などが使用していた日本語の古い一人称で、身分の上下に関わりなく使われた主に男子の名を作る接尾辞で、大した意味は無い。
となると、熊野意宇麿って人名じゃないような気がしてきませんか?もしそうであるなら、この名前が歴史上に出てこないのも納得がいくんだけどなぁ…