ウイリアム・アダムスのマニラ渡海
鈴木かほる著 『徳川家康の浦賀・スペイン外交」より ウイリアム・アダムスのマニラ渡海 関東浦賀湊は1604年以来、毎年、スペイン商船が寄港し通商が行われていたが、その一方、ポルトガルでは、マニラが支那や日本と通商することを阻止する提案が出されていた。ロレンソ・ペレス著『ベアト・ルイス・ソテーロ伝』によれば(野間一正訳(1968a)、1606年5月、この提案を受けてスペイン枢密会議が開催され、その結果、本国スペイン国王はフィリピン総督に対し、マニラが浦賀と交渉を持たぬよう命ずるべき、とする要望が出された。スペイン船の船長フランシスコ・モレノ・ドノーソは、この重大問題を解決するため、宣教師ルイス・ソテーロを伴って徳川家康と秀忠に謁見した。このとき、ベアト・ルイス・ソテーロは役立つ交渉人として、ウイリアム・アダムスをマニラへ送る案を示唆し、その結果、ウイリアム・アダムスは1608年6月15日、フィリピン総督ロドリコ・デ・ビベロと会見したと述べている。これはウイリアム・アダムスの母国イングランドの通商が成立する13年前のことで、任期を終えたフィリピン総督ロドリコ・デ・ビベロが関東岩和田に漂着する前年である。総督ロドリコ・デ・ビベロはフィリピンが手に入れる利益を悟り、懸案となっている八幡船問題を終結するため、獄中にあったすべての日本人徒者を釈放することを決し、1608年7月9日、家康に書状をしたためた(1968b)。西暦1608年7月9日は、日本暦では慶長13年5月27日にあたる。そこで、徳川家康の側近で学僧の以心崇伝が翻訳した日本側の史料『増訂異国日記抄』を、ここに紹介したい。捧 前将軍家康尊公書云本国伊須波二屋之帝王 当国呂宋為守護拙夫被仰付 今度致渡海候。然者、前々於守護人 御懇意之段令承知候。到我等、無御異議候様可恭候 縦雖隔雲山万里候。心中者非其儀候。彌々可申談候。次又拙夫、此国参着砌 当所数年逗留之日本人徒者共候而 所之騒ニ罷成候之間 当年者壹人も不相残帰国之儀申付候。雖然毎年渡海之商客 何も無疎意人等候之間 致馳走候。向後別儀有間敷候。如例年 今年も黒船差渡候。則到関東(・・)可乗入之旨 安子(・・)申付候。併海路不任雅意候へは 日域中者、皆以御国之儀候之間 何所へ成共 風次第可入津之由申付候 此加飛丹同船中者共 御馳走奉仰候。兼又貴国居住之ふらて之儀 如前々被加御哀燐候様 是又奉仰候。少進物以目録申上候。奉表寸志而已。恐惶敬白。 慶長拾三年五月廿七日 鈍、ろちりこで 朱印 びへいろ 判也 謹上 日本国御主、大御所様ドン・ロドリコ・デ・ビベロはマニラに到着し、イスパニア国王の総督に就任したことを述べ、貴国と長く続いた御懇意の絆を益々強力なものとするべく、マニラに数年来、逗留されている日本人徒者を一人残らず帰国させることと決し、以後、紛争が再発せぬことを望んでいることを述べ、本年も船を1隻赴かせるが、この船は関東に入港すべき旨、「安子」に命じたと伝え、加飛丹以下の饗応を要請している。この日本行きの船には、当然、総督ロドリコ・デ・ビベロの使節である加飛丹と航海士、および徳川家康の使者ウイリアム・アダムスが同船していたはずであり、右の「安子」こそ、三浦按針つまりウイリアム・アダムスである。このことは、ロレンソ・ペレスも関東に入港するようウイリアム・アダムスに命じたと説明しているし(1968c)、また、日本並びに支那駐在メキシコ全権公使レーラ.C・Aも、「AnJin」は職名の「按針」ではなく、ウイリアム・アダムスをさすと述べている(「Primeras relaciones ofciales entre el Japon y Esupana tocantes a Mexico」1905a)。『増訂異国日記抄』には、三浦按針を「安子」「アンジ」「安仁」「あんじん」と記し、ジョン・セーリス著『日本渡航記』にも、「アンジ(Ange)」は、土地でそう呼ばれるアダムス君のことだ」と記している。こうして、William Adamsのマニラ渡海によって、フィリピン近海で恐れられていた八幡船の存在に終止符が打たれ、浦賀貿易が再開された。 そして、同年、通商が円滑に行われるよう、浦賀住民の狼藉を禁じた高札が賀湊に立てられた(「御制法」6)。『べアト・ルイスソテーロ伝』によれば、日本並びに支那駐在メキシコ全権公使レーラ,C,Aの説明では、ウイリアム・アダムスの執り成しにより高札が立てられたとしている(1905b)。同年に浦賀に創設されたフランシスコ修道院も、ウイリアム・アダムスの執り成しと考えられる。これらの家康の優遇は、キリスト教に対する理解に基づくものではなく、スペイン商船の浦賀入港を続けるための、止むを得えぬ措置であったことは言うまでもない。ウイリアム・アダムスの重用日本史上、為政者が外国人を顧問として寵遇した例がないなか、なぜ、家康はWilliam Adamsを外交顧問として重用したのか。この疑問は、浦賀外交の事象を一つ一つ検証することにより浮上してくる。1、ウイリアム・アダムスは、1600年4月はじめて家康と謁見した際、ポルトガル人やスペイン人のように商売をしたいと請うたが、回答は得られなかったと、自らの書翰にしたためている。家康が、単なる貿易目的でウイリアム・アダムスを重用したのであれば、貿易と布教との一体化の理念を持つ旧教国との交易は速やかに絶ち、商売だけをする新教国に切り替えたはずである。ところが、オランダとの通商成立は、 Adamsの来日から9年後の1609年8月であり、イングランドとのそれは13年後の1613年10月である。しかも、スペイン国のように、家康の積極的な働きかけによって成立したのではなく、ウイリアム・アダムスの来日が契機となって、両国の東印度会社が日本との通商権を争うように使節が派遣され、彼の斡旋によって成立した、いわば受身外交である。2、家康は、オランダ・イングランドの商船に対し、一切、浦賀入港を強要せず、平戸に商館を置く希望をあっさりと容認している。家康の権力を以てすれば、浦賀に商館を建てさせ、新教国の貿易拠点とすることもできたはずだが、両国に宛てた通行許可証には、U浦賀入港の指示は一切していない。浦賀入港を強要しているのは、スペイン商船のみである。3、家康が、ウイリアム・アダムスに江戸邸を与え、浦賀に近い逸見村に采地を与え、さらに浦賀に屋地を与えた事実は、イングランドやオランダとの通商のためではなく、スペイン外交のためであったことは明白である。でなければ、同じ外交顧問として雇用したオランダ人ヤン・ヨーステンのように、江戸邸だけを与えれば良いはずである。4.1615年8月15日、メキシコ総督から返礼大使ディエゴ・デ・サンタ・カタリーナが、政宗船サン・ファン・バウティスタ号に乗って浦賀に来航した際、幕府の禁教令と国外退去の指令を伝えたのは、平戸から浦賀に呼び出されたウイリアム・アダムスである。以上から、Adamsが重用されたのは、スペイン外交のためであったことは明らかである。伊達政宗の遣欧船とメキシコ使節セバスチャン・ビスカイノの関係セバスチャン・ビスカイノを帰国させた返礼として、メキシコ総督の大使セバスチャン・ビスカイノが浦賀湊に入港したのは、1611年6月である。彼の使命は日本の東沿岸を測量し、日本近海にあるとされた金銀の鉱脈を発見し、そこを浦賀に代わる寄港地とすることである。 もとより架空の金銀島を発見できるはずはなく、再三の暴風雨に遭遇し船体は破壊し、1612年11月7日(慶長17年10月15日)家康の援助にすがるべく浦賀に戻り、帰国のための大船建造を請うた。彼らは、家康に日本沿岸の海図を与えただけであり、ここに至り鉱夫招聘の実現が絶望的であることを悟る。セバスチャン・ビスカイノが帰国の船を失ったとき、造船を依頼した先は、奥州の海岸を測量した際、メキシコ商船を自領に招き入れたいと語った伊達政宗である。セバスチャン・ビスカイノは伊達政宗に造船匠を貸与することを申し出、これが結実して、伊達政宗の遣欧使節の派遣に至った、というのが実際である。こうして、浦賀外交は、鉱夫招聘を実現することなく訣別を迎えた。全国にキリスト教布教を完全に禁止する禁教令が発布されたのは、1614年2月1日(慶長18年12月23日)である。こうして、国際貿易港としての浦賀の生命は10数年で終焉を迎えている。結論家康の浦賀外交は、スペイン一国に焦点が当てられていたことが浮上する。スペイン系商船の寄港地は、常に浦賀湊であり、イングランド・オランダ・ポルトガルの商船を浦賀に招く交渉は、一切、行われていない。古来の仕来りを破り難破船の積荷を保障し、スペインとの関係構築に力を注いだのは、メキシコで行われている鉱山開発の技法の導入が眼目であったことは、明らかである。ウイリアム・アダムスをブレーンとして重用したのも、イギリス・オランダ貿易のためではなく、スペイン外交に携わせるためです。家康は、フィリピン総督が要請する日本商船の数の限定に応じ、はじめて朱印状を交付した。つまり、家康の朱印船制度の発祥は浦賀外交にある。スペイン側は、その当初から裏切るための外交であった。そこに家康の過誤がみられる。浦賀外交の失敗は、イエズス会とフランシスコ会に35万人という日本人信者を許し、禁教という結末に至らせ、日本はオランダ・中国を除いて、欧州諸国に対して閉鎖する道を選んだ。この浦賀外交が、日本が「鎖国」へと歩む起源となったといえよう。」