タウンニュース

2023年のNHK大河ドラマは『どうする家康』。戦国の乱世を制した徳川家康は、誰もが知る歴史上の人物だが、横須賀とも縁がある。それが、「浦賀」という場所とウィリアム・アダムズ(三浦按針)だ。家康とどのように関わり、その後の横須賀に影響を与えたのか―2人の識者に解説してもらう。

家康支えた外交顧問

――「家康と横須賀のつながり」というと、三浦按針の存在なくしては語れません。そもそも、按針はなぜ日本にきたのでしょうか?

イギリス人航海士ウィリアム・アダムズ(のちの按針)は1600年、乗っていたオランダ船が漂着し来日しました。按針は船員の代表として、当時五大老の筆頭であった家康の尋問を受けました。すでに按針より50年以上前に来日し、キリスト教の宣教と貿易を進めていたスペイン人やポルトガル人らは、「海賊たちゆえに処刑すべき」と家康に執拗に進言しました。しかし按針たちの目的は、東洋での貿易だったのです。

――異国からやってきた按針を家康が重用した理由は。

按針は大坂城で尋問された際、西欧ではカトリックとプロテスタント、それぞれを信仰する国同士が戦っていることなど、家康が初めて耳にする情報を伝えています。外交に苦慮していた折、世界情勢を正確に教えてくれる按針は得難い存在。按針がいたからこそ日本は諸外国からの侵略を免れたと言っても過言ではありません。また、彼を信頼し重用したのは互いに共感するところがあったからだと思います。それは、争いのない世を求めたこと。数々の苦難の末、家康が求めたのは平和な世でした。

若かりし頃、織田軍に追われ先祖の墓の前で自害しようとした家康は、菩提寺である大樹寺(愛知県岡崎市)の住職から「厭離穢土欣求浄土」という言葉を与えられ思い留まります。「貪り殺し合うこの世を厭(いと)い、争いのない世を希求する」という意味のこの言葉は後に家康の旗印となります。イギリスの貧しい家庭に生まれた按針もまた、航海中の略奪や殺し合いの経験などから、人間は状況によって醜い鬼になることも知っていました。按針がもたらした大砲や造船技術、諸外国の情報は家康にとって有益でした。しかし、それを超えて友情ともいえる信頼が二人の間にあったと思われます。

――歴史上、領地を与えられた外国人は按針以外にいません。

按針の重用は、現代においても驚くべきことです。家康は今でいう「ダイバーシティ(多様性)マネジメント」の実践者と言えるでしょう。前例や固定概念にとらわれない家康像が見えてきます。

按針の領地・逸見の領民たちや、屋敷があった浦賀、日本橋の人々が彼を慕っていたことが資料に残されています。今年の大河ドラマをきっかけに、按針を通して江戸時代における横須賀の存在や役割が再発見されることを期待します。

スペイン外交と浦賀湊

──異国船の来航は、幕末に開国を迫ったアメリカのペリー提督のイメージが強く、それ以前に浦賀が国際貿易港として機能した歴史はあまり知られていません。実は家康の命を受けた三浦按針が大きな役割を果たしていたと聞きます。

江戸時代初期、浦賀湊にガレオン船と呼ばれるスペイン商船が入港していました。軍事力の強化を目指す徳川家康は1598年、当時スペイン領だったメキシコから造船と金銀精錬の新技術を導入したいと考え、このガレオン船を寄港させるよう交渉に乗り出しました。家康は江戸城に近い浦賀が”天然の良港”であることを熟知しており、海外貿易に活路を求めました。ただ、この時にネックとなったのが、言語。ラテン語を話せる側近が存在せず、交渉は難航していました。ここに突如現れたのが三浦按針です。航海士であった彼は世界情勢に明るく、大型帆船の造船技術を有し、語学にも通じていました。忠誠心厚く、誠実であったとも言われています。家康はすぐに全幅の信頼を寄せるようになり、江戸邸のほか、逸見村の采地と浦賀邸を与えました。家康にとって按針は願ってもない存在であり、偶然と必然が交錯する歴史の不思議さや面白さを感じます。

──按針が外交顧問として、スペインとの交渉の最前線に立ったということですね。

戦国末期から江戸初期、大航海時代の貿易ルートに「マニラ・ガレオン船の太平洋航路」があり、スペイン、マニラ(フィリピン)、アカプルコ(メキシコ)をつなぐ中継地点として浦賀湊が位置付けられていました。舞台となった場所は東叶神社前の海で、現在「日西墨比貿易港之碑」が建っています=写真。按針邸は東浦賀の東林寺近くにあったとされ、ここにも「按針屋敷跡」の看板があります。同商船は約1年停泊し、滞在期間中は船員と浦賀の住民との間で交流があったはずです。浦賀洲崎には、スペイン人に狼藉をはたらかないよう注意を促す高札が立てられていることから、その関係性が想像できます。

ただ、浦賀湊が貿易港としての役割を果たした期間は13年間と短命でした。貿易を拡大させるため、家康はキリスト教の布教を黙認していましたが、圧倒的なキリシタンの増加を危惧して禁教政策に転じ、スペイン外交は幕を閉じることになります。

──浦賀湊を世界文化遺産に登録するための活動を行っています。

わずかな期間ですが、浦賀が国際貿易港として栄えた史実を広く伝えたいと思っています。そのキーパーソンに按針もいます。2019年に「浦賀湊を世界文化遺産にする会」を立ち上げ、実現をめざしています。先の建碑はその取り組みの一環です。世界文化遺産への登録には、貿易があった事実を示すための遺物が必要であり、浦賀湾口などでの発掘調査実施を求めているところです。