ガダルカナル 9月12日 | cat day afternoon

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子供の成長とガダルカナル航空戦

この日もラバウルの日本海軍航空隊はガダルカナル方面攻撃に出撃する

木更津空
行動調書では

0454(0654)

、千歳空行動調書では
0600(0800)、三澤空行動調書では0610(0810)にブナカナウ基地を発進。任務は木更津空行動調書では「グァダルカナル攻撃」三澤空行動調書では「「ガダルカナル」攻撃」、千歳空行動調書では「「ガダルカナル」陣地攻撃」。機数は木更津空は9機、三澤空は11機、千歳空は6機。指揮官は木更津空の鍋田大尉。武装は木更津空行動調書では250キロ爆弾9発と60キロ爆弾52発、三澤空行動調書では250キロ爆弾8発と60キロ爆弾48発、千歳空行動調書では250キロ爆弾4発と60キロ爆弾34発。天候は木更津空と三澤空行動調書では晴、千歳空行動調書では4-5。

この日の零戦隊は二空だった。二空行動調書では0600(0800)に15機の零戦がラバウル基地発進。
前日と逆で、15機のうち3機は六空の零戦だった。指揮官は倉兼義男大尉。任務は「ガダルカナル攻撃」気象は晴。
六空行動調書は0600(0800)に「基地発進機数6機」としており、編成調書には金光武久満中尉指揮の3機小隊と川眞田勝利中尉指揮の3機小隊とが記入されているが、ガダルカナル攻撃に向かったのは金光中尉の小隊で、川眞田中尉の小隊は船団上空哨戒任務に発進したと思われる。なお、この日出撃した六空の搭乗員6人全員が、小福田大尉とともに進出してきた先遣隊20名には含まれていない。六空の第二陣以降が到着し始めているようだ。

9月11日の第五空襲部隊に於ける戦闘詳報によると、「FBG(※基地航空隊)信電令作第三九號 明十二日5AB(※第五空襲部隊)6AB(※第六空襲部隊)は既令の外左に依り作戦すべし」欄に「一、5AB (イ)一號零戦の大部を以て6ABのRXI(※ガダルカナル)攻撃に協力攻撃隊援護並に敵航空兵力攻撃」とあり「5AB電令作第二七二號 明十二日各隊左に依り作戦すべし」欄には、「二、攻撃 第三部隊六空派遣隊零戦約十五機6AB陸攻隊RXI(※ガダルカナル)攻撃直接援護」とある。
また、「6AB信電令作第一〇五號 明十二日各隊左に依り作戦すべし」欄には、「一、「ガダルカナル」攻撃 (イ)攻撃隊木空一〇機(内三機四空陸攻使用)三澤空一二機千歳空四機兵装二五番六番陸爆指揮官木空司令所定とある。

木更津空行動調書では0607(0807)に「南空fc×15と合同」となっている。この日も陸攻隊は、護衛の零戦は台南空の機だと思っているようだ。

同じ頃、MAG-23の戦時日誌では、0800に空襲警報があり、海軍VF-5の23機と、VMF-223の4機、VMF-224の5機が離陸したが、会敵せず全機0830に帰投となっている。VMF-224の戦時日誌では0830に6機が離陸、0930に着陸となっている。VF-5とVMF-223の戦時日誌にはこの出撃の報告は無い。

三澤空行動調書では、0820(1020)にヴェロナ島(※?ソロモン諸島のベロナ島ならば、ガダルカナルから南に約100海里の場所にある。)上空、陸攻隊は各隊とも0905(1105)に「警戒」

MAG-23の戦時日誌では、1100に再び空襲警報があり、26機の爆撃機と護衛の16機のゼロがヘンダーソン基地を攻撃してきた。VMF-223のスミス少佐、フレイザー少尉、トロウブリッジ少尉、ヒューズ少尉、リース少尉、VMF-224のゲイラー少佐、アーミステッド少佐、ドビン少佐、ニコレイ中尉、ホロウェル少尉、クンツ少尉、VF-5のシンプラー海軍中佐、デビッド・リチャードソン海軍大尉、ハワード・グリンメル海軍中尉、ウォルター・クラーク海軍大尉、フランク・グリーン海軍中尉、ハリー・マーチ海軍少尉、フランシス”キャッシュ”レジスター海軍少尉、ジョン・ウェソロウスキー海軍少尉、モーティマー・クレインマン海軍少尉、マーク・ブライト海軍少尉、ケルビン・ローチ海軍少尉、リチャードソン海軍大尉(※?二回目である。)、アーウィン海軍少尉(※?VF-5にアーウィンというパイロットはいない。)、チャールズ・アイケンバーガー海軍少尉、ハワード・クルーズ海軍大尉、ジョージ・モーガン海軍少尉、ジェームズ・ハルフォード海軍少尉、リチャード・ローシュ海軍少尉、ウィルドン・ロース海軍少尉、ロバート・ネスビット海軍一等操縦士、リー・マンキン海軍一等操縦士の合計31機が迎撃に離陸した。
VMF-223の戦時日誌では、1200にスミス少佐、マクレナン少尉、フレイザー少尉、トロウブリッジ少尉が離陸したと報告されている。
VMF-224の戦時日誌では、1125に再び空襲警報があり、ゲイラー少佐、ドビン少佐、アーミステッド少佐、アーウィン中尉、ニコレイ中尉、クンツ少尉、ホロウェル少尉が離陸したが、ゲイラー少佐とニコレイ中尉、ホロウェル少尉は会敵できなかったとなっている。

海兵隊第3防御大隊は、1145に高度24,400フィートで針路000で進入してくる26機の爆撃機と機数不明の戦闘機に94発の90ミリを発射、3機撃墜を報告している。

0948(1148)に、三澤空行動調書では「爆撃(地上飛行機24機中多数撃破)」木更津空行動調書では「爆撃終了 爆撃瞬時1中隊1/2D(※二小隊一番機)高角砲弾直撃自爆 爆撃直後1中隊2/3D(※三小隊二番機)敵fc(グラマン)機銃弾命中左燃料「タンク」より発火自爆す、敵グラマンfc×20と空戦 爆撃直前まで防御砲火極めて熾烈なり」千歳空行動調書では「爆撃終了直後敵グラマン戦斗機と空戦約20機 防御砲火熾烈なり 全弾飛行場命中三ヵ所炎上飛行機撃破」となっている。
 
二空行動調書によると零戦隊は1000(1200)にガダルカナル飛行場上空突入中攻隊を攻撃せんとする敵戦十七機を発見空戦開始撃墜十三機(内三機不確実)」。1015(1215)に「帰途に就く」。六空行動調書もほぼ同様である。

トレガスキスは空襲警報が鳴ると、他の報道班員とともにジープを飛ばしてルンガ岬に向かい、航空無線を傍受していた。「十一時四十二分スミス少佐から、「スミス少佐観察地点より。敵南方より来る、大編隊なり」成程大編隊だ。何時もの双発銀翼の三菱96が青空にすんなりした白い雲の線のようにまっしぐらに進んで来るのが見える。」「今度は殆んど雲のない青空にくっきりと敵機がえがき出された。そして爆撃目標たる飛行場上空に達するまでには、相当な距離があった。従って高射砲の対空砲火には絶好の日和だった。」「最初は、射程が高すぎて日本機の上で炸裂した。銀翼が砲火の炸裂した点々たる雲煙の中を進んで行った。そのうち高射砲の照準が合ってきた。砲火が銀翼の直前で炸裂した。とみるまに編隊の左翼の爆撃機に命中した。翼下右側の機関部の胴体がオレンジ色の爆発の閃光を発すると、発動機は白い煙を発して、ぐっと下に傾き編隊を離れて行った。」「すっかり編隊から離れると、別な高射砲弾が編隊中央の一機の胴体の真下で炸裂した。たちまち火はめらめらと機の中央に燃え移り、すっかり黒煙に包まれたと見るまに木の葉のように地上に落ちて行った。一翼は紙のように焼け離れると、猛烈なスピードで落ちる胴体の後からひらひらと舞いおちた。機体はすっかりばらばらになり、機体の中心部は加速度を以て地上に激突した。」「この時分には残りの日本機は海上に出ていた。中に一機恐らく高射砲を食ったのであろう、編隊から離れた。味方の戦闘機が機を失せず襲いかかった。」「今日は報道班員連中が多数集まってこの空中戦を見物した。フット・ボールの試合でも見物しているように大はしゃぎだった。」「「よし、あの戦闘機を見ろ。とうとうつかまえたぞ」」「無格好な大きな胴体の爆撃機に比較するとまるで熊蜂のような戦闘機が襲いかかった。そしてタタタタという機関銃の音が聞こえた。爆撃機は回転し、停止すると真逆様に海中に墜落していった。」「他の爆撃機は青空のどこかに姿を消した。しかし味方の戦闘機の追撃している音が聞こえた。」「この空の一大演舞場に取り残された爆撃機と戦闘機の妙技争いが引続き行われた。爆撃機は垂直に海に急降下して行った。しかし戦闘機は、いじの悪い蚊のように爆撃機の周囲を飛びまわって、生きているかどうか調べているようだった。」「爆撃機は数千フィート急降下し、突然立ち直ると急にぐんぐん上昇して行った。正に死闘している動物が息苦しく喘いでいる様を彷彿させた。」「とみる間に戦闘機が近づくと機関銃を数秒間連続的にタタタタタと撃ち始めた。やがて爆撃機は横倒しとなり、ぐるぐるきりもみ状態でツラギ湾へ落下していった。」「数秒して海上におちたと思うと、そこからめらめらと火を発しもうもうたる黒煙を吐き出した。海岸で見物していた連中は得点(タッチ・ダウン)が一つふえたときのように狂喜した。」
 
1005(1205)に木更津空行動調書では「空戦終了帰途に就く」、千歳空も「空戦終了各中隊毎に帰投」陸攻隊は各隊とも1030(1230)に「警戒元へ」千歳空行動調書では1100(1300)に「水道の東方駆逐艦2隻東に向うを認む」三澤空行動調書では1210(1410)にショートランド島上空、千歳空は1230(1430)に基地着としているが、時刻の記載間違いかもしれない。木更津空行動調書では1330(1530)に7機がブナカナウ基地帰着、三澤空も同時刻に「基地帰着(9機帰着、2機行方不明)」としている。

米軍はVF-5のリチャードソン海軍大尉が膝を負傷し、被弾によりデッドスティック・ランディングを試みたアイケンバーガー海軍少尉が着陸時の事故により死亡、少尉の納入番号5075のF4Fは失われた。

木更津空は前述のとおり第二小隊一番機の高松特務少尉機と
第三小隊二番機の山村孜一飛曹機が自爆、他全機も被弾。三澤空は第二小隊二番機の大木鉄五郎一飛曹機と第三小隊二番機の今野武二一飛曹機が行方不明、他に被弾機が4。千歳空はどの機かは不明だが1機が不時着大破、負傷者1名、他に被弾機が4。また、倉町秋次氏著の「予科練外史<4>」 によると、三澤空の電信員の野口祐三飛曹が機上戦死している。
 

零戦隊は1330(1530)にラバウル基地に帰着。第一中隊二小隊二番機の石川四郎二飛曹機と第二中隊第一小隊二番機の六空の日高義巳一飛曹機が被弾1。第一中隊一小隊二番機の岡崎虎吉二飛曹が未帰還となった。

岡崎虎吉二飛曹は操練四十四期。開戦時には空母祥鳳戦闘機隊として九六式艦戦に乗っていたようだ。2月中旬頃からは零戦で出撃している。珊瑚海海戦時に祥鳳が沈んだ際には駆逐艦弥生に救助されている。余談だが弥生は駆逐艦磯風とともに前日の9月11日にラビ撤収作戦のためニューギニア方面に出撃し、
岡崎二飛曹と眞柄一飛曹はその上空哨戒に出撃しているが、悪天候の為引返し、弥生はB-17の爆撃により1615(1815)に沈没した。

この日のガダルカナル攻撃には二空の角田飛曹長も、第二中隊二小隊長として出撃している。角田飛曹長の戦後の著書、「修羅の翼」の中で、ガダルカナルからの帰投後、眞柄一飛曹と直援方法について相談する場面があるが、この二人が共にガダルカナルに出撃して、両者とも無事帰投するのはこの日だけなので、恐らくこの9月12日の出来事と思われる。

陸攻隊は空戦により木更津空が撃墜1機、三澤空が撃墜5機、千歳空が撃墜5機、内4機不確実としている。

零戦隊は二空の山本留藏一飛が撃墜2機、輪島飛曹長と眞柄一飛曹が1機撃墜確実1機不確実、倉兼大尉と森田豊男三飛曹、長野一飛、横山三飛曹が撃墜確実1機、井汲一男三飛曹が1機撃墜不確実、六空の竹田彌一飛が撃墜2機の合計13機撃墜うち3機不確実の戦果を報告している。

VMF-223の戦時日誌では、スミス少佐とフレイザー少尉とトロウブリッジ少尉は2機の爆撃機の撃墜を報告。リース少尉はゼロ1機の撃墜を報告。VMF-223の戦時日誌では離陸したパイロットの中に名前のないリース少尉が、何故か撃墜の報告には名前がある。
VMF-224のドビン少佐とアーミステッド少佐、クンツ少尉は爆撃機1機の撃墜を報告。アーウィン中尉は他の爆撃機1機を撃破。
VF-5のレジスター海軍少尉はゼロ1機を撃墜。クラーク海軍大尉とグリンメル海軍中尉、ウェソロウスキー海軍少尉とマンキン海軍一等操縦士はそれぞれ爆撃機1機の撃墜を報告。クレインマン海軍少尉は爆撃機1機不確実。

VF-5のレジスター海軍少尉はこの日の日記に、「これが今最も熱い最前線であると私は信じます。」「26機の爆撃機と20機の戦闘機が、今日爆弾を基地に落としにやってきました。本当の地獄の幕開けです。」「私はエンジントラブルのためにまたもはぐれてしまい、複数のゼロに襲われました。1機を撃墜して帰れたことは非常にラッキーでした。」「我々は今夜巡洋艦によって砲撃されると予期されています。」と書いている。

フランシス"キャッシュ"レジスター海軍少尉はノースダコタ州出身の1917年11月15日生まれ。予備役将校訓練課程を修了し、真珠湾攻撃の直後にウィングマークを得て、その後エンタープライズのVF-6に配属となるが、ミッドウェイでは病気で出撃できなかったようだ。8月24日の第二次ソロモン海戦でゼロ1機とメッサーシュミット109を1機撃墜(※本当に記録されている。)、他にゼロ1機を共同撃墜しているのが初戦果。同じ日にエンタープライズが損傷したため、8月26日にサラトガのVF-5に合流するが、前述のとおり8月31日にそのサラトガも損傷し、9月2日にエファテに移動した
。10月1日に中尉に昇格となり、10月14日までVF-5とともにガダルカナルで戦い、後にVC-21に転属するが、1943年5月16日にアッツ島上陸作戦の航空支援任務の際に事故死する。最終撃墜数は7機。

MAG-23の戦時日誌では、午後の索敵に出たVS-3のSBDのうち、ロバート・ペリシア海軍少尉機がレンドバ島から方位300、距離40マイルの位置に4隻の駆逐艦を発見、アラン・フランク海軍中尉機がチョイセル島の南東端から40度の方角、距離20マイルの位置に駆逐艦1隻を発見、ロバート・ミルナー海軍大尉機がサンタイサベル島の北端から方位330、距離20マイルの位置に2隻の駆逐艦を発見した。

ルンガ岬での空中戦見物を終えたトレガスキスは、「飛行場に帰って見ると、本日の総合戦果は爆撃機十機と零戦三機だった。ぐんぐん増す最近のこの戦果は日本軍にとって恐怖の的であろう。」「スミス大尉がはいってきて今日第十四機と第十五機を撃墜したと報告した、はっきりと本人はそう言わなかったが飛行場で少佐に進級された。戦果に対する十分な報償である。」「ケン・フレイジャー中尉(ニュージャージイ州バーリントン出身、ケネス・D・フレイジャー中尉)は我々がルンガ岬で見物していた時、敵の爆撃機を物の見事に撃墜した勇士だった。今日彼はもう一機撃墜した。」「彼は「最初の奴は燃えながらおちてゆきましたよ。戦闘はごく簡単で、僕が襲いかかると曳光弾がとどかなかったので少し近づけると機は解体して落ちてゆきました」と語った。」「飛行場の他端には、我々が見物していた時解体した日本の爆撃機のばらばらの部分品が落ちていた。大きな胴体は殆んどそのままであった。金属は自分の知っているアメリカの爆撃機のものより遥かにもろいようだった。」「飛行場の一端の椰子の林は大きな爆弾に見舞われ、大きな穴があいていた。しかし他に大した被害はなかった。百トン爆弾(※原文のまま。)が小屋に直撃し一人の死人と無電装置を破壊したのが被害の全部だった。とにかく分かっている限りではそれが損害の全部だった。」と書いている。




1942年9月に撮影されたとされる写真。状況的に見てこの日撃墜された木更津空の陸攻の残骸かもしれない。後方のPBYの陰に「パゴダ」が見えているので、ヘンダーソン基地西端の南側で北を向いて撮影されたものと思われる。推測どおりなら午後の撮影で、背景のF4FはVF-5の機体と思われる。


第六空襲部隊戦闘概報の第二一号では、「三、鹿空(※鹿屋空)陸攻九機PST(※テニアン)よりRRE(※ブナカナウ)着本職指揮下に入る」「四、明日使用可能機数 (イ)陸攻 木空七、澤空八、千空四、鹿空九 (ロ)一號零戦六空八 二號零戦同六

MAG-23の戦時日誌によると、「9月12日から13日にかけての夜の間に3回、ヘンダーソン基地のビーチと露営エリアは、恐らくペリシア少尉が発見した4隻の駆逐艦に砲撃された。」とある。この砲撃で
VMSB-232のローレンス・バルディナス少尉、ドナルド・ローズ少尉、VMSB-231のジェームズ・ワイントラウブ少尉が戦死し、VMSB-232のダニエル・アイバーソン大尉とVMSB-231のトゥルール・サイドボトム軍曹が負傷し後送された。

砲撃してきたのは、軽巡洋艦川内と、駆逐艦敷波、吹雪、涼風だった。第二水雷戦隊戦時日誌の令達報告等に記録されていた、第三水雷戦隊司令官の13日0830(1030)に発信した報告によると、「本夜「ルンガ」湾に突入敵艦船なし二二〇四(13日0004)より一時間四航路より附近の敵陣地に照射砲撃敵は探照灯一、砲二、三門を以て応戦効果不明我被害なし陸上時々砲声聞える外特に変化を認めず又敵飛行機を認めず」とある。

予定ではこの日の日没後から、陸軍川口支隊による総攻撃が行われているはずであった。