ガダルカナル 9月13日 午前 | cat day afternoon

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子供の成長とガダルカナル航空戦

9月12日の第五空襲部隊に於ける戦闘詳報によると、「FBG(※基地航空隊)信電令作第四一號 一、明十三日5AB(※第五空襲部隊)6AB(※第六空襲部隊)偵察攻撃部署左の通り定む」欄に「(イ)陸偵隊5AB陸偵二機零戦六機〇四三〇発進RXI(※ガダルカナル)飛行場附近陸戦状況並着陸能否偵察通報着陸可能の場合は一機降着陸軍と連絡並に戦斗機隊降着準備を行う」「(ロ)攻撃隊並びに制空隊6AB陸攻大部及5AB一號零戦大部〇八〇〇発進攻撃目標第一「タイボ」岬附近第二「ルンガ」河口附近 特令なければ第一目標とす」とある。また、六空零戦のガダルカナル進出と輸送機による整備員と機銃弾の輸送も計画されている。

ショートランドのR方面部隊の神川丸飛行機隊十四空水戦隊戦闘詳報によると、「九月十三日 一、水戦二機〇二〇〇(0400)「レガタ」基地発進「ガダルカナル」敵飛行場黎明偵察を実施後〇六〇〇(0800)「ショートランド」基地に帰投せり「ガダルカナル」敵飛行場に「味方部隊飛行場使用可能」の信号を認む飛行場西方海岸に味方大発約五〇隻接岸しあり「エスペランス」岬に大発数隻あるを認む地上より防御砲火なし、空中に敵機数機を認む附近海上に船艇を認めず「ツラギ」方面は濛気のため敵艦艇の動静不明」となっている。

MAG-23の戦時日誌では0530にVF-5の5機がパトロールに出撃。会敵なく0755に全機帰還。VMF-224の戦時日誌では0530に「12機のヨークタウンの戦闘機がスクランブル」となっている。
同時刻に、リッチモンド・ターナー海軍少将とジョン・マケイン海軍少将を乗せたVMJ-253のR4Dもヘンダーソンを離陸。VF-5はこの輸送機の護衛任務も兼ねていたのだろう。

同じころ、ガダルカナル南東250マイルの空母ホーネットから、9機のF4Fが発艦した。指揮官はVMO-251のカール・ロングレイ大尉。ワスプからも同じように、9機のF4Fが発艦しようとしたが、1機は不調で、ワスプ搭載の海軍VF-71は自分たちのF4Fと交換してくれた。こちらの指揮官はVMF-212のフレデリック・ペイン少佐。合計18機のF4Fは、ヘンダーソン基地の海兵隊戦闘機隊の増援だった。

台南空行動調書では0430(0630)に最新鋭の二式陸偵2機が「グァダルカナル偵察」にラバウル上空を発進。田中陸軍参謀(※田中耕二第十七軍航空参謀?)が搭乗する2偵の操縦は、かつて横空で十三試双発戦闘機の実用試験を担当していた小野了飛曹長だった。
護衛の零戦9機も同時刻にラバウル上空発進。二式陸偵2機を援護し進撃を開始する。指揮官は稲野大尉。第二小隊長は高塚飛曹長、第三小隊長は大木一飛曹、稲野大尉が直率する第一小隊の二番機は奥村一飛曹、第三小隊の二番機、三番機は太田一飛曹と羽藤三飛曹と有名な搭乗員がそろった豪華なメンバーである。第二小隊二番機の松木二飛曹もこの日までに9機撃墜、三番機の佐藤三飛曹も第三航空隊に所属していた6月23日に、偵察に現れたB-17を撃墜、台南空では前述のとおり9月5日に2機撃墜、10日に1機不確実撃墜の戦果を挙げている。なお、松木二飛曹と佐藤三飛曹、第一小隊三番機の茂木義男三飛曹は、三人とも7月に三空から台南空に転勤してきた搭乗員である。三空は戦果を編隊ごとに記録していたので、個人ごとに記録を取っていたとしたら、撃墜数はもっと増えていたのかもしれない。(※6月23日の佐藤三飛曹の場合、接敵できたのは佐藤三飛曹のみだったので、単独での撃墜が認められている。)

VMF-223の戦時日誌によると0730、MAG-23の戦時日誌によると0745から0805に、増援の18機のF4F-4
がヘンダーソン基地に到着。操縦してきたのはVMF-212のペイン少佐、ジャック・コンガー少尉、フランク・ドゥルーリー少尉、リチャード・ヘリング少尉、クレア・チェンバレン少尉の5人と、13人のVMO-251のパイロットだった。

フレデリック・ペイン少佐は1911年7月31日生まれ。この後10月までに5機の日本機の撃墜を記録しエースとなる。1958年准将で退役。2015年8月6日に104歳で亡くなる。現在のところ最も高齢まで生きたエースパイロットとされている。

増援の飛行機とパイロットの所属先を決める前に、VMF-224の戦時日誌では0900、VMF-223の戦時日誌では0945、MAG-23の戦時日誌では0950に26機のゼロに護衛された2機の双発爆撃機の空襲のため、VMF-224とVF-5の17機がアラートにより離陸。

台南空行動調書によると、0740(0940)に1偵が「敵小型機発見 グァダルカナル末端に避退」、2偵が「敵小型機4機発見避退 味方に通報」としている。零戦9機は0800(1000)に「グァダルカナル上空突入」

VMF-223の戦時日誌ではスミス少佐、フィリップス少尉、ウィンター少尉、ヒューズ少尉、リード少尉、マクレナン少尉の6機と、VMF-212のペイン少佐、コンガー少尉、
ドゥルーリー少尉、ヘリング少尉、チェンバレン少尉の5機が離陸、VMF-224からはゲイラー少佐、ドビン少佐、アーミステッド少佐、ハートレイ少尉、ホロウェル少尉の5機が離陸、VF-5の戦時日誌には、離陸したパイロットのリストは無かったが、MAG-23の戦時日誌によるとシンプラー海軍中佐、クラーク海軍大尉、イライシャ”スモーキー”ストーバー海軍中尉、グリンメル海軍中尉、ジョセフ・シューメーカー海軍少尉、ドナルド・イニス海軍少尉、ウェソロウスキー海軍少尉、ベンジャミン・カリー海軍少尉、レジスター海軍少尉、ローシュ海軍少尉の10機が離陸し、迎撃のために上昇した。しかし上昇の途中で8月31日と同じ不可解な事故がまたも起こる。
VMF-212のヘリング少尉は24,000フィートで上昇中に突然急降下し、後続していたコンガー少尉は無線で叫んだが応答がなく、飛行場南西の丘に激突した。またも酸素吸入システムの故障と考えられる。配備直後にこうした事故が発生するので、初期不良と思われるが、海兵隊では酸素吸入システムのチェックをしていないのだろうか?いずれにせよほんの数時間前にヘンダーソン基地に到着したばかりのヘリング少尉と彼の乗機は失われてしまった。
また、F4FをフェリーしてきたVMO-251のオスカー・ラトリッジ少尉が、何故か離陸事故を起こし、負傷している。迎撃に加わろうとしたのだろうか?

理由はわからないが、この迎撃はやや後手に回ったようで、米軍のアラートは零戦隊の上空突入直前となった。また、これも理由は不明だが、第3防御大隊のこの日の対空射撃の記録は無い。トレガスキスの「ガダルカナル日記」にも、この空戦に該当する記述はない。

最初に接敵したのは、VF-5のクラーク海軍大尉の指揮するストーバー海軍中尉、クレインマン海軍少尉(※何故かMAG-23の戦時日誌の離陸したパイロットのリストには、クレインマン海軍少尉の名前は無い。余談だが、VF-5にはモーティマーとジョンの2人のクレインマン海軍少尉がいた。ジョン・クレインマン海軍少尉は9月27日にヘンダーソン基地に進出してきている。)、イニス海軍少尉の4機編隊のようである。クラーク海軍大尉の行動報告によると、大尉の4機ディビジョンは、スクランブル後25,000フィートまで上昇した時に、6機のナゴヤタイプのゼロから攻撃を受けたとなっている。この攻撃で4番機のイニス海軍少尉機が炎上。
イニス海軍少尉の行動報告によると、2機づつの緩い4機編隊で高度26,000フィートを上昇中に、上方に敵機のグループを発見。こちらの先頭機に降下してきた。敵機が引き起こして右旋回したところを追って射撃すると、敵機は発煙した。その直後に別の機に燃料タンクか燃料ラインを撃たれてコクピットの前と底から炎が上がり、グローブで隠れていない右腕と右肩、顔の右側を火に襲われた。フードを開けて脱出した、無人の少尉機(※納入番号5084)はそのまま上昇していったと記述している。
クラーク海軍大尉の行動報告では、少尉は脱出したが、パラシュートが完全に開かず、大尉らは約12,000フィートまで螺旋旋回で(※ストーバー海軍中尉の行動報告では、クラーク海軍大尉とストーバー海軍中尉の2機が約16,000フィートまで)落ちていくパラシュートを追っていった。そこで再び3機のゼロ(※ストーバー海軍中尉の行動報告では4機のゼロ)の攻撃を受け、クレインマン海軍少尉と分離してしまった。「私たちは高度6,000フィートの雲に隠れようと降下したが、ゼロも追って降下してきた。」
ストーバー海軍中尉の行動報告では、「1機のゼロが私の機の尾部を穴だらけにした。私は8,000フィートまで降下した。彼らのうちの1機を追うと機首を上げた。私が一連射すると、彼の機は炎に包まれて墜ちていった。私は彼が丘の上で燃え上がるのを見た。」となっている。中尉はその直後に別の1機に射撃。その機は白煙を吐くと、2回旋回して見えなくなった。

ガダルカナル島上空で激しい空戦が行われているころ、ラバウルのブナカナウ基地では、陸攻隊が出撃しつつあった。
木更津空行動調書では0730(0930)、三澤空行動調書では0757(0957)、千歳空行動調書では0800(1000)にブナカナウ基地を発進。任務は木更津空行動調書では「グァダルカナル攻撃」、三澤空と千歳空行動調書では「「ガダルカナル」敵陣地攻撃」。機数は木更津空は9機、三澤空は7機、千歳空は2機。指揮官は三澤空の中村大尉。武装は木更津空行動調書では250キロ爆弾9発と60キロ爆弾51発、三澤空行動調書では250キロ爆弾7発と60キロ爆弾42発、千歳空行動調書では250キロ爆弾2発と60キロ爆弾12発。天候は木更津空行動調書では快晴、三澤空行動調書では晴、千歳空行動調書では6。

台南空行動調書では0800(1000)に12機の零戦がラバウル基地発進。指揮官は河合大尉。

木更津空行動調書では0800(1000)に零戦12機と合同、三澤空行動調書では0830(1030)に「セントヂョージ岬」で合同、進撃を開始する。

再び空戦が続くガダルカナル上空に戻る。

 
クラーク海軍大尉はおよそ20から25分間、雲に出たり入ったりしながら戦っていた。
零戦1機を撃墜し、1機に白煙を吐かせたストーバー海軍中尉も、別の零戦に攻撃され、雲に逃げ込み、およそ30分間、大尉と同じように雲から出たり入ったりを繰り返していた。

一方その頃、避退した台南空の2機の二式陸偵は、
小野飛曹長の2偵は0835(1035)に「飛行場偵察 飛行場に大型・小型約四十機を認む」木塚重命中尉の1偵が0845(1045)に「飛行場偵察 グァダルカナル島西端にて敵らしき小型機6機を認む 飛行場に大型機1機の外異状を認めず」と行動調書で報告している。

海兵隊戦闘機隊がどの時点で空戦に参加したのか、正確にはわからない。VMF-223の戦時日誌では、「散開した15機のゼロファイターと接触」となっている。
 
VF-5のクラーク海軍大尉は、高度約3,500フィートで雲の一つを突っ切ったところで、「partial wingover」でゼロの1機に2秒間の連射を浴びせることができた。
そのゼロが丘の上に墜落するところを、ストーバー海軍中尉も目撃した。クラーク海軍大尉が他の2機のゼロに追われて雲の中に飛び込むまで見ていた。
大尉は別のゼロの射撃を避けようと旋回したところでスピンに陥り、高度400フィートでようやく回復した。しかしそのゼロはまだ追ってきた。大尉は速度を回復して旋回し、射撃したところでまたもスピンに陥った。ツリートップレベルで回復した。ゼロは後ろについていた。場所はククムの西10マイルの地点だった。大尉はフルスロットルで岸から約300ヤード離れて海岸線に沿って「ルンガ・ポイント」を目指した。そのゼロは3航過したが、射程に捉えることはできなかった。大尉のF4Fの速度計は海上で210ノットを示した。「ルンガ・ポイント」の射程内に入ると、ゼロは去っていった。大尉の機体には6つの弾痕があった。弾丸は約半分消費していた。報告の中で大尉は、「私は低空でゼロを振り切ることが出来なかった。」
敵のパイロットはより攻撃的です。彼は私を撃墜することができました。」
しかし他のグラマンに後ろに付かれるかもしれないと、用心深くなったのだろうと記述している。

ストーバー海軍中尉機はラダーやバランスタブや尾輪のロッキングケーブルなどを撃たれ、片方の翼には大穴があいていたが、中尉は負傷もなく帰投。「装甲板はとても良い。」と報告している。弾丸は1,440発中1,390発を消費していた。日本機については、「敵は、戦闘において稚拙な判断と稚拙な射撃術を示しました。きちんと取り扱われるとき、彼らの飛行機は非常に操作しやすくて、我々のものよりはるかに優れています。」としている。

イライシャ”スモーキー”ストーバー中尉はテキサス州ダラス出身でこの時点で22歳。その後大尉に昇進したが、1944年2月16日、トラック島空襲にCV-10ヨークタウンからF6Fで出撃。ベイルアウトして日本軍の捕虜となったことは確認されているが、その後は不明。翌日殺害された可能性が高い。この時のストーバー大尉の出撃の模様は映画「FIGHTING LADY」にも出てくる。”スモーキー”というあだ名は、ストーバーという名前からの連想と、当時のコミックの「SMOKEY STOVER」からとられたものと思われる。

高度25,000フィートで燃えるF4Fから脱出したイニス海軍少尉は、海上に着水し、ヒギンズボートに救出された。首と顔と足首と腕に2度から3度の火傷を負っていたが、命は助かった。少尉はこの日のうちに後送された。10月11日に再びガダルカナルに戻ってきてVF-5に合流しているので、負傷は意外に軽かったのかもしれない。イニス海軍少尉は8月7日のシーラーク海峡上の空戦でも、台南空零戦から被弾している。

空戦中に編隊からはぐれてしまったクレインマン海軍少尉機は無事帰投した。
 
台南空の行動調書では、0800(1000)から0850(1050)まで、「グァダルカナル上空突入」「敵グラマンfc×20数機と交戦 fc0×4 行方不明」としている。かなり長時間空戦したようだ。
行方不明となったのは第二小隊の高塚飛曹長、松木二飛曹、佐藤三飛曹と、第三小隊三番機の羽藤三飛曹だった。他は被弾機もなく、各機機銃弾350発を消費したとなっている。

高塚寅一飛曹長は大正3年(1914年)生まれで操練二十二期のベテラン。この日からちょうど2年前の昭和15年(1940年)9月13日の伝説的な零戦初空戦に大木一飛曹(※当時は二飛曹)らとともに参加し、1機を撃墜している。「日本海軍戦闘機隊2 エース列伝」によると、総撃墜数は16機。

VMF-223の戦時日誌では、前述したVMF-212のヘリング少尉の他に、マクレナン少尉機(※納入番号4071)が未帰還。フィリップス少尉機がひどく撃たれ、少尉は無事だったものの納入番号03501(※他の資料では5100となっている。)の機体は再使用不能となった。フィリップス少尉はゼロ1機を撃墜後、マクレナン少尉とともに追尾してくるゼロを急降下で振り切り、マクレナン少尉機の無事も確認するが、その直後にマクレナン少尉のF4Fは飛行場南の丘に激突する。スミス少佐は10月2日に撃墜され、ベイルアウトして徒歩でジャングルを基地に向かって歩いていた際に、マクレナン少尉の遺体が乗ったままのF4Fを発見した。

8月20日にVMF-223がヘンダーソン基地に進出して以来、21日のVMF-223の初空戦を皮切りに主要な空戦のほとんどに参加したジョージ・マクレナン少尉が戦死。1919年生まれでイェール大学卒業。1941年に予備士官として海軍入隊。11月に航空士官候補生に任命され、1942年5月23日に海兵隊少尉になったばかりだった。スコットランド系のため”スコッティ”と呼ばれていたようだ。

ハイド・フィリップス少尉はミッドウェイ海戦では離陸できなかったが、ヘンダーソン基地に配属されてからは徐々に頭角を現し、8月29日にゼロ1機、9月10日に爆撃機3機の撃墜を報告し、この日の撃墜が最終スコアで5機を撃墜する。翌日の9月14日を最後に出撃がなく、9月23日に病院に後送されている。少佐に進級するが、1952年8月14日に朝鮮戦争で戦死。1915年生まれなので他の少尉たちより若干年長のようだ。

VMF-224の戦時日誌では1050に帰着としている。この迎撃での帰着時間を記述しているのはこの
VMF-224の戦時日誌が唯一である。VMF-224は損害は無かった。

時間は前後するが、偵察援護の台南空零戦隊は行動調書によると1300(1500)までにラバウル基地帰着。奥村一飛曹が撃墜3機、大木一飛曹と太田一飛曹が撃墜2機、稲野大尉が撃墜1機を報告している。

米軍ではVMF-223のスミス少佐とフィリップス少尉がゼロをそれぞれ1機撃墜。
VMF-224ではハートレイ少尉が1機撃墜を報告。ハートレイ少尉はこれが初撃墜である。

ディーン・ハートレイ少尉はこの後4.5機を撃墜して戦争を生き残り、朝鮮戦争にも参加。1970年に大佐で退役した。戦後は日本文化に魅せられ、全米でも有数の日本刀コレクターになる。日本人の友人も多かったようだ。2010年に89歳で亡くなる。

倉町秋次氏著の「予科練外史<4>」に、この空戦で第一小隊三番機として参加した茂木三飛曹が、内地に一時帰還した際に、当時予科練で座学の教授だった倉町氏を訪ねて、この空戦の模様を語った部分があるので、引用したい。「「その朝、敵飛行場を占領したという情報で、陸偵二機と零戦九機は、ガダル飛行場に着陸するつもりで出撃しました。私は一小隊の三番機、佐藤と羽藤は、二小隊と三小隊の三番機でした。飛行場近くまでは高度八、○○○位で進み、敵の哨戒機と遭遇したので陸偵は高度を下げて避退し、零戦隊は空戦に入って移動しながら飛行場上空に移りました。敵機の着陸するのが見え、味方が突入した形跡はない。新たに敵機約二○機が上がって来ました。味方は苦戦、次第に不利になる。空戦は、二十分位が普通ですが、その時は四十分位戦いました。一機、自爆するのが見えた。敵かな、と思ったが、それが羽藤だったのです。羽藤は空戦しながら一、五○○位まで下がっていて、周りには敵の戦闘機がいっぱいでした。その戦いで佐藤昇も帰らなかったのです。空戦に夢中になって、帰る時機を忘れたらしいのです。羽藤は、それまでに四五機は墜としていたのに・・・・」」「と残念そうに茂木は言った。公式記録の単独撃墜は一九機とあるが、共同撃墜を数えればそうなるのであろう。」となっており、米軍報告の空戦状況ともほぼ一致する。この空戦に参加した零戦搭乗員の唯一の証言である。一部資料では零戦隊が着陸しようと低空に降りたところで米軍に奇襲された、となっているが、実際には高度約25,000フィートとかなりの高高度で空戦が始まり、しかも先手を取ったのは日本軍のほうだったようだ。なお、茂木三飛曹と羽藤三飛曹、佐藤三飛曹は予科練では乙飛九期の同期であった。

茂木義男三飛曹も翌年の昭和18年(1943年)10月18日のブイン基地上空で、グレゴリー・ボイントン少佐指揮のVMF-214とVMF-221のF4Uコルセア20機を迎撃し、未帰還となっている。この時には一飛曹となっていた。

第5空襲部隊戦闘詳報によると、「0920(1120)十四空 二式大艇 水倉特務少尉 「ツラギ」の123度345浬に敵機動部隊(d(駆逐艦)×4 C×2(巡洋艦) B(戦艦)×2 A(空母)×1)を発見(高度1500)報告」となっている。十四空の行動調書でも確認できる。

VMF-224は1130にアラームによりスクランブルするが、会敵せず。

台南空行動調書によると、木塚中尉の二式陸偵は0955(1155)までヘンダーソン飛行場の偵察を続けていたが、「飛行場北方にて「グラマン」1機を認め避退 帰途に就く」とある。

ブナカナウを発進した陸攻隊は、三澤空行動調書によると、0956(1156)にモノ島上空に到達していた。