ガダルカナル 9月11日 | cat day afternoon

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子供の成長とガダルカナル航空戦

ラバウルの日本海軍航空隊はこの日もガダルカナル方面攻撃に出撃する。木更津空行動調書では0700(0900)三澤空行動調書では0725(0925)、千歳空行動調書では0740(0940)にブナカナウ基地を発進。任務は木更津空行動調書では「グァダルカナル攻撃」三澤空行動調書では「「ガダルカナル」攻撃」、千歳空行動調書では「「ガダルカナル」敵飛行兵力及び南側敵陣地攻撃」。機数は木更津空と三澤空は12機、千歳空は3機。指揮官は三澤空の中村大尉。武装は木更津空行動調書では800キロ爆弾3発と250キロ爆弾8発と60キロ爆弾58発、三澤空行動調書では800キロ爆弾2発と250キロ爆弾7発と60キロ爆弾42発、千歳空行動調書では800キロ爆弾1発と250キロ爆弾2発と60キロ爆弾12発。天候は木更津空行動調書では晴、三澤空行動調書では「晴雲」千歳空行動調書では5-6。
木更津空行動調書では0720(0920)に「台南空戦斗機15機と合同」となっている。だがこの日の零戦隊は、台南空ではなく六空だった。

六空がガダルカナル方面に出撃するのはこれが初めてである。第五空襲部隊戦闘詳報第九号の「三、経過」「(二)本期間中兵力配備(使用可能機数)左の通」「記事」によると、「四、六空先遣隊(零戦十三機)八月三十一日「ラバウル」到着より5ABの作戦指揮を受け九月五日、一度その指揮を解かれ、6ABに復帰せしが、八日再び在「ラバウル」六空戦斗機隊を作戦指揮し、九月十三日再度指揮を解かる」とある。なお、同記事中に四空が9月9日付で第六空襲部隊の指揮下に入ったと記述されている。
六空行動調書では0730(0930)に15機の零戦がラバウル基地発進。指揮官は小福田大尉。任務は「陸攻隊直接援護敵航空兵力撃滅」
15機のうち3機の搭乗員は二空だった。二空行動調書では0715(0915)にラバウル基地発進。指揮官は二神秀種中尉。任務は「ガダルカナル攻撃」。気象は晴としている。

なお、9月10日の第五空襲部隊に於ける戦闘詳報によると、「FBG(※基地航空部隊)信電令作第三八號 明十一日5AB(※第五空襲部隊)6AB(※第六空襲部隊)は既令の外左に依り作戦すべし」欄に「一、5AB (イ)一號零戦大部を以て6ABのRXF(※?RXIの誤記か?)攻撃に協力攻撃隊援護並びに敵航空兵力攻撃」とあり、また「5AB電令作第二七一號 明十一日各隊左に依り作戦すべし」欄には、「一、攻撃 六空派遣隊(第三部隊(※二空)三名増援)零戦十五機を以て6AB RXI(※ガダルカナル)攻撃陸攻隊直接援護」とある。

ラバウルの零戦隊が離陸するのとほぼ同時刻、ガダルカナルでは、MAG-23の戦時日誌によると0930に空襲警報がありVMF-223のスミス少佐、フレイザー少尉、トロウブリッジ少尉、マクレナン少尉の5機(※名前は4人分しか書かれていないが、機数は5機となっている。)と、VMF-224のゲイラー少佐、ドビン少佐、クンツ少尉、ムッセルマン少尉、ダーシィ少尉の6機
(※名前は5人分しか書かれていないが、機数は6機となっている。)が離陸、会敵せず1030に全機帰投となっている。なお、VMF-224の戦時日誌では0730に離陸、1030に着陸としており、VMF-223の戦時日誌ではこの出撃については全く触れられていない。

MAG-23の戦時日誌では、0930に9機の海兵隊と海軍混成のSBDがギゾ島爆撃に出撃。搭載爆弾は8発の500ポンド爆弾と2発の100ポンド爆弾だった。指揮官はマングラム少佐。全弾をギゾ島の建造物に投下した。

三澤空行動調書では0905(1105)にモノ島上空を通過。
千歳空行動調書に、0917(1117)に、「敵飛行艇1機「ラボール」の98?・680浬に飛行中」というちょっと意味が分からない記述がある。ラバウルから離陸して1時間半ほどで、一式陸攻が680海里も飛べるとはとても思えないのだが?
木更津空、三澤空行動調書では1028(1228)に「警戒」

MAG-23の戦時日誌では1210、VMF-224の戦時日誌では1155、VMF-223の戦時日誌では1125に再び空襲警報があり、
MAG-23の戦時日誌ではVMF-223のスミス少佐、フレイザー少尉、トロウブリッジ少尉、マクレナン少尉、リース少尉の5機と、VMF-224のゲイラー少佐、ムッセルマン少尉、ドビン少佐、ダーシィ少尉、ニコレイ中尉、アーミステッド少佐、クンツ少尉の7機が離陸とあるが、VMF-223の戦時日誌によるとリース少尉は酸素のトラブルにより離脱となっており、VMF-224の戦時日誌では離陸したのはゲイラー少佐、ドビン少佐、アーミステッド少佐、アーウィン中尉、クンツ少尉、ホロウェル少尉、ムッセルマン少尉となっている。
敵機数はMAG-23の戦時日誌では26機の爆撃機と護衛の推定8機のゼロ、 VMF-223の戦時日誌では26機の双発爆撃機と20機のゼロファイター、VMF-224の戦時日誌では26機の双発爆撃機と最低でも18機のゼロファイターとしている。

木更津空行動調書では、1040(1240)に「爆撃コースに入る」
三澤空行動調書では1045(1245)に「爆撃終了」
木更津空行動調書では「爆撃、敵グラマン戦闘機約6機発見、空戦開始1機撃墜、被弾機2機、全弾予定地点に弾着、1ヵ所炎上」とある。
千歳空の行動調書では、「敵飛行場及び周辺南側陣地を爆撃1ヶ所炎上爆撃終了後グラマン戦斗機9機と交戦1機を撃墜せり」となっている。
 

海兵隊第6防御大隊は1250に22,000フィートで針路245で進入してくる26機の爆撃機を確認したが、射程範囲外だった。

MAG-23の戦時日誌によると、爆撃により1機のP-400が地上で破壊され、海兵隊員11人が死亡、17人が負傷した。負傷者の中には、第5海兵連隊第2大隊指揮官のハロルド・ローズクランズ中佐も含まれていた。

三澤空行動調書では、「弾着は雲の為確認し得ざりしも概ね敵兵舎及滑走路に命中1ヶ所炎上せしも?如し」となっている。

木更津空行動調書では1050(1250)に「1機自爆(第2中隊2小隊2番機(※島田忠幸一飛曹機))」。1055(1255)に「空戦終了」
三澤空行動調書では、1100(1300)に「帰途に就く」

零戦隊は1045(1245)にガダルカナル上空に突入。1050(1250)に爆撃終了を確認している。二空行動調書では「敵を見ず」となっているが、六空行動調書では、1052(1252)に「敵グラマン戦斗機4陸攻隊来襲之を追撃」、1100(1300)に「戦場引揚」となっている。この日の六空行動調書は、びっくりするほど正確である。


VMF-224の戦時日誌では、「これらのパイロットは、時間の不足のため、敵軍の高度に達することができませんでした。
そして、それは26機の双発爆撃機と少なくとも18機のゼロファイターから成りました。しかし、VMF-223のパイロットはそれと交戦し、5機の爆撃機を撃ち落としました。とある。ゲイラー少佐は帰投する残りの爆撃機とゼロファイターを追撃し、1機の爆撃機を撃墜し、他に1機のゼロを撃墜した可能性があるが、反撃を受けエンジンが停止し、海岸から約100ヤードの海上に不時着水した。ゲイラー少佐は泳いで岸まで戻ったとなっている。




ゲイラー少佐は不時着水するのはこの日が二度目だった。写真は1990年4月5日にカリフォルニアで引き揚げられたF3F-2。この納入番号0976のF3Fは、VMF-2のロバート・ゲイラー中尉が1940年8月29日に操縦中、エンジンが停止し、カリフォルニア沿岸に不時着水した。

六空行動調書では、帰途に就いた5分後の
1105(1305)に「ルッセル島(※ラッセル諸島)南B-17一機発見攻撃」、1110(1310)、「帰途に就く」としている。

B-17は陸軍第431爆撃飛行隊のロバート・サリバン陸軍大尉のシリアル41-9227だった。サリバン大尉はミッドウェー海戦で飛龍爆撃にも参加している。この日の戦闘では10分間で4機のゼロの破壊を報告している。

木更津空行動調書では1120(1320)に「警戒元へ」

MAG-23の戦時日誌によると、ゲイラー少佐以外の機は1335に帰還。VMF-223のスミス少佐が爆撃機2機の撃墜を報告。トロウブリッジ少尉、マクレナン少尉、フレイザー少尉がそれぞれ1機の爆撃機の撃墜を報告。VMF-224のゲイラー少佐が爆撃機1機とゼロ1機の撃墜を報告。

1345、ギゾ島爆撃に出撃していたSBD9機がヘンダーソンに帰投した。

MAG-23の戦時日誌では、1515に13機の海兵隊と海軍混成のキャルドウェル海軍大尉指揮のSBDがガダルカナル北西100マイルの重巡洋艦1隻と駆逐艦2隻の攻撃に出撃したが、視界が極めて悪く、4機のみが接敵、1発の至近弾を与えたのみとなった。

千歳空行動調書では1150(1350)に「敵飛行機小型8機高度2000にて飛行中」という記述が、何故か爆撃より時系列が前に書かれている。

三澤空行動調書によると、陸攻隊は1227(1427)にアレクサンダー岬(※チョイセル島の北西端)、1313(1513)にブカ飛行場上空、1350(1550)にセントジョージ岬と飛行し、千歳空行動調書では1340(1540)に「「ブナカナウ」帰着」、三澤空行動調書では1410(1610)に基地帰着、木更津空行動調書では1415(1615)に「ラバウル上空帰着 flo一式×11」としている。

三澤空、千歳空はともに被弾機1機、空戦で撃墜1機を報告している。木更津空は前述した島田一飛曹機が自爆、他に被弾機5、空戦でやはり1機撃墜を報告している。

零戦隊は六空、二空とも1430(1630)にラバウル基地に帰着としている。

六空の行動調書では空戦による戦果報告は無く、村上繁次郎一飛が行方不明とされている。だが、この時点では村上一飛はまだ生きていた。

村上一飛は帰途のラッセル諸島上空のB-17との空戦で編隊とはぐれ、単機で帰途に就くもののブーゲンビル島近くで積乱雲のため機位を喪失。その後燃料系統のトラブルで不時着水。着水直前に投棄した増槽につかまり(※増槽を交戦中も落としていなかったようだ。)ニューギニア近くのガワ島に数日後に漂着。友好的な現地人の助けを借りて友軍戦線への復帰を目指すが、最終的に10月8日にキタバ島で豪軍コーストウォッチャーと撃ち合いになり、戦死している。村上一飛はこの間の行動について日記を残しており、豪軍に回収され、英訳されている。
村上一飛の数奇な運命について触れている書籍は、私の知る限り神立尚紀氏の著書、「零戦隊長」のみである。
なお、日記の中で村上一飛は、搭乗機をU-107としている。

MAG-23の戦時日誌によると、1620にリロイ・シンプラー海軍中佐が率いるVF-5(※海軍第5戦闘飛行隊)の24機のF4F-4がヘンダーソンに到着。VF-5の戦時日誌ではエスピリトゥサントのバトンからガダルカナルまで24機で合計飛行時間112.0時間となっているので、約4時間40分の飛行だったのだろう。
VF-5は8月31日に伊号
第二十六潜水艦の雷撃を受けて戦場を離脱したCV-3サラトガの戦闘機隊である。前述したとおりハワイに帰投するサラトガを9月2日に離れてエスピリトゥサントに留まっていた。ガダルカナルに進出するまで9日間の時間が空いたのは、ファイターストリップが使用可能になるのを待っていたのかもしれない。VF-5の戦時日誌では、「海兵隊の戦闘飛行隊223と224の生き残りはまだここにあり、そして、彼らがファイターストリップから、我々がメインの飛行場から行動し、敵の空爆の迎撃に努めるのが我々の共同の仕事になるだろう。」となっている。

陸軍第67戦闘飛行隊のクリスチャン大尉、エルウィン中尉、ブルズスカ少尉の3人がヌーメアに戻った。

2130(2330)、第二十四駆逐隊の海風、江風と夕立がカミンボに到着。青葉支隊の一部と海軍通信隊6人を揚陸。2300(12日0100)に揚陸完了。この日はそのまま引き揚げた。

第五空襲部隊に於ける戦闘詳報によると、「5AB戦闘概報第155號(九月十一日)」欄に、六、明日使用可能機数 RRA※ラバウル東)零戦一號十六機零戦二號二十機二式陸偵一機九八陸偵一機艦爆五機RR(※ラバウル)二式大艇二機九七大艇二機RXE(※ショートランド)九七大艇五機となっている。

第六空襲部隊戦闘概報の第二〇号では、「三、雲鷹搭載の六空第二次派遣一號零戦十二機RRA(※ラバウル東)着 六空司令RR(※ラバウル)進出」「四、明日使用可能機数 RRE(※ブナカナウ) 陸攻 木空七、澤空一二、千空四、四空十二

9月5日に陸海軍の現地協定で11日と決定された川口支隊の攻撃開始日は、その後二転三転し、この日になってようやく12日に決定した。第二水雷戦隊の戦時日誌によると、11日の0845(1045)にGF(※連合艦隊)電令作第二七〇号の「一、X日を十二日に改む」を受信している。