ガダルカナル 9月4日 | cat day afternoon

cat day afternoon

子供の成長とガダルカナル航空戦

0727、ツラギからククムにバロウズがやってきて投錨。積み荷を降ろし始める。

三澤空森田大尉指揮の三澤空、木更津空、千歳空の各9機の陸攻が、ガダルカナル攻撃に出撃。時刻は三澤空行動調書では0700(0900)ブナカナウ基地発進、木更津空行動調書では0600(0800)、千歳空行動調書では0600(0800)離陸開始、0700(0900)flo1(※一式陸攻) 27機発進となっている。天候は木更津空は曇、三澤空は晴 戦場天候不良としている。

0645(0845)、稲野大尉指揮の台南空12機、二空3機の零戦はラバウル基地を発進、陸攻隊と合同進撃する。二空零戦隊がガダルカナル攻撃に出撃するのはこれが初めてである。二空の小隊の指揮官は輪島由雄飛曹長。また、一空の矢澤彌一(※一空時代の行動調書では「彌市」)二飛曹が第一中隊三小隊二番機に、金子敏雄一飛曹と中谷芳市三飛曹がそれぞれ第二中隊二小隊一番機と二番機になっている。2日に空母大鷹に載って零戦10機とともにやってきたと思われる。

なお、9月3日の第五空襲部隊に於ける戦闘詳報によると、「明四日各隊左に依り作戦すべし」欄に「二 攻撃 第一部隊(※台南空)零戦大部(第三部隊(※二空)三名増援)は6AB(※第六空襲部隊)攻撃の直接援護〇七〇〇(0900)発進RXI(※ガダルカナル)攻撃と記述されているので、零戦は全て台南空の機体なのだろう。
 
MAG-23の戦時日誌では、1005に500ポンド爆弾装備の13機のSBDと、100ポンド爆弾で爆装したVMF-224の8機のF4Fが、サンタイサベル島とサンホルヘ島の上陸用ボートの攻撃に出撃した。指揮官はマングラム中佐とゲイラー少佐。浜で擬装した40から70フィート長の39隻のボートを攻撃し、3発の爆弾がボートを直撃し、さらに機銃で攻撃した。SBDは1355に、F4Fは1315に全機無事帰還。
これは川口支隊の舟艇機動部隊に対する攻撃だった。VMF-224の戦時日誌では1050に離陸となっている。

0840(1040)、攻撃隊はモノ島上空を通過。

1100、VMF-223はアラートにより離陸。パイロットはカール大尉、ヒューズ少尉、リース少尉、キャンフィールド少尉、ケンドリック少尉、フレイザー少尉、トロウブリッジ少尉、ウィンター少尉だった。会敵なく1300に帰投。VMF-224の戦時日誌では1205にジェフリーズ少尉とハートレイ少尉がVMF-223とともにコンバットパトロールに離陸、会敵なく帰投、となっている。

0940(1140)、木更津空の行動調書では、「S空1機引返す」とある。千歳空の1機と思われるが、千歳空の行動調書には該当する記述はなかった。
「警戒」木更津空、千歳空は0945(1145)、三澤空は1000(1200)。
1020(1220)、三澤空行動調書ではルッセル諸島(※ラッセル諸島)。1022(1222)、千歳空行動調書では、「パヴリウ島(※?ラッセル諸島最大の島のパブブ島か?)上空通過」とある。
しかし1045(1245)、三澤空行動調書では「天候不良のため反転(駆逐艦及び輸送船各一隻を発見報告す)」。木更津空、千歳空も同時刻に「引返す」としている。三澤空飛行機隊編成調書の中で、「ガダルカナル飛行場上空は濃雲の為視認し得ず爆撃を実施せず クンモ(※?)附近海上に輸送船駆逐艇各一隻を雲間より発見報告す」とある。
第六空襲部隊の戦闘概報第一四号の「一、RXI攻撃」欄では、「雲間よりRXB(※ツラギ)泊地に駆逐艦及小型輸送船各一隻を瞥見せり」とある。
零戦隊は、二空行動調書では1020(1220)、台南空行動調書では1030(1230)に、「グァダルカナル上空突入 敵機を発見せず 空戦なし」としている。

1426、空襲警報によりいったん沖に出ていたバロウズが再びククムに投錨。荷揚げを再開する。最後までバロウズに残っていたVMF-223の下士官兵21名もこの時下船したと思われる。バロウズは1831にはツラギに戻った。これで行方不明者2名と、負傷者2名、エファテにいるマービン中尉以外のVMF-223の隊員は全員ガダルカナルに揃った。

1450、VMF-224の戦時日誌によると、「ゲイラー少佐が300ポンド爆弾を装備した陸軍P-400を3機率いてサンホルヘ島の39隻の揚陸艇攻撃に出撃。爆撃と機銃掃射を行う。2隻のボートに爆弾が直撃。敵は帰還するまで機関銃を撃ってきたが損害なし。1530に帰還。」

1105(1305)に警戒を解いた陸攻隊は1255(1455)にブカ島上空、帰着時間は木更津空と千歳空は1337(1537)、三澤空は1345(1545)としている。

1230(1430)に、ニューギニア方面に派遣されていた台南空と二空の零戦隊が帰着する。ただし機数は、台南空大野竹好中尉、米田忠一飛、二空角田和男飛曹長、横山孝三飛曹の4機と、0845(1045)に先に帰着した二空の眞柄侾一一飛曹、長野喜一一飛の6機だけだった。

大野竹好中尉は大正10年(※1921年)生まれの海兵六十八期。
第三十六期飛行学生を6月に卒業したばかりで、搭乗員歴はまだ3か月ほどだが、8月に士官搭乗員5人を失った台南空で奮戦する。8月に戦死した村田功中尉と結城

国輔中尉
は同期だった。また、大木一飛曹は大分航空隊で操縦学生だった時の教員だった。奥村一飛曹も同じ時期に大分空の教員だったかもしれないが、確認できていない。翌年5月、二五一空としてラバウルに再進出し、6月30日に戦死する。その際に遺した手記が、零戦搭乗員会編の「零戦、かく戦えり!」に掲載されている。「日本海軍戦闘機隊2 エース列伝」によると、最終撃墜数は8機。初撃墜は8月27日に達成している。

 
いっぽう、ガダルカナル攻撃に出撃した台南空零戦隊は1230(1430)にはラバウル基地に帰着としている。時間が早すぎるのでニューギニア派遣隊の帰着と誤認した記載間違いかもしれない。二空零戦隊は1345(1545)に帰着としている。
余談だが、この日の台南空零戦隊の搭乗員12人のうち、指揮官の稲野大尉を含めて5人がこの戦争を生き残っている。翌9月5日出撃の12人は全員戦死しているのと対照的である。

MAG-23の戦時日誌では、1705にレオ・スミス少佐が指揮する8機のSBDがサンタイサベル島とサンホルヘ島の上陸用ボートの爆撃と機銃掃射任務に再び出撃し、戦果不明だが全弾目標区域に命中した。全機が無事に帰還。

一連の攻撃により日本軍舟艇機動部隊では、死傷者こそ出なかったものの、多数の舟艇が損傷した。

第六空襲部隊の戦闘概報第一四号では、「二、3F派遣零戦十五機艦攻六機母艦収容を了す」「三、明日使用可能機 陸攻 木空十四、澤空十、千空十、」となっている。

駆逐艦夕立、敷波、有明、浦波、初雪、叢雲が一木支隊の残余と青葉支隊の一部をタイボ岬に上陸させる。

この日、前日未明の日本軍潜水艦の砲撃の際に、発光信号の目撃報告があったサボ島に、海兵隊の第1強襲大隊が上陸するが、日本軍はおらず、夕方、来た時と同じグレゴリーとリトルとマグロ漁船改造船でガダルカナルに戻る。
上陸部隊に同行したトレガスキスの「ガダルカナル日記」では、「午後は海が荒れて、空は曇ってきたので輸送船に帰るのになかなか骨が折れた。」「ガダルカナルへ帰ると、リトル号或はグレゴリー号内に夜をあかすかどうか議論があった。明日タイヴへ行く可能性があったが、遂に上陸することに話がきまった。」とある。
海兵隊員を下船させたグレゴリーとリトルは、そのまま海峡の哨戒任務に就いた。