和田裕弘「信長公記」 | 世界文学登攀行

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世界文学の最高峰を登攀したいという気概でこんなブログのタイトルにしましたが、最近、本当の壁ものぼるようになりました。

信長公記
――戦国覇者の一級史料

僕は、小説と新書を併読することにしていたのだが、ドストエフスキーを読破しようとするあたりから、集中するために新書を読むことをやめていた。
なかなか読書が進まない。
読書にも栄養バランスというものがあるらしいことを思い出した。
どうしても新書が読みたくなって、手近にあったものの中で一番読みたいと思った織田信長のものを読むことにした。むさぼるように読んだ。

「信長公記」とは、太田牛一によって書かれた織田信長についての一代記である。
と、こう書くと、太田牛一とは、権力者の記録を残すためのプロのように思われるかもしれない。
太田牛一は「信長に弓矢の力量を認められ、馬廻衆(うままわりしゅう)の一人として信長に近侍した」(「はじめに」Pi)れっきとした武人である。

というように、そもそも「信長公記」とはなんぞやというところから丁寧に語られていく。
サブタイトルの「一級史料」の「一級」とは、素晴らしい、という意味の一級ではない。同時代人が事実に基づいて書いたであろう一次史料という意味での一級である。
それだけに「信長公記」を読めば、当時の歴史の真実に近いものが読み取れるだろうという錯覚を起こしがちである。
しかし、現代の人が、必ずしも現代のすべてを把握しているわけではないように、当時の人が書いたからと言って、すべてが正しいわけではなく、誤解や誤記、場合によっては事実と異なる改ざんの可能性だってあるだろう。

一章以降「尾張統一と美濃併呑」「上洛後」「安土時代」「天下布武へ」と、時代を区切って「信長公記」の記載に基づいて信長の事績を追っていくのだが、この本の素晴らしいところはただ「信長公記」を要約するだけではなく、「信長公記」の限界を意識しながら、同時代の別の史料などを丹念に突き合わせていくことによって、「信長公記」がそもそも正しい記載なのか、別の史料が「信長公記」をどう補足する情報なのか、つぶさに検討をし、なおかつその結果に基づいて、織田信長という人間や、その軍団、歴史状況などを、浮かび上がらせていこうとするところにある。
桶狭間の戦い、足利義昭との関係、姉川の戦い、長篠の戦い、本能寺の変など、動乱の時代に生きた織田信長のターニングポイントとなる事件については、それなりに知っていると思っていた。
しかし、自分の中にあった物語と、実際に起こったことの間には大きな隔たりがあるようでもある。
もちろん、どんなに史料に基づいたからといって、全てを断定的に把握することなどできないが、真実はどうだったのかと考えることに非常に大きな知的好奇心と興奮を覚えた。

砂漠の中に埋もれた干からびた情報から、当時を再現するような、そこに費やされた、非常に大きなエネルギーを本書の中に感じた。
とともに、歴史を探るという、突き詰めるとだからなんだというようなものに膨大なエネルギーをそそぐような生き方ができる研究者は、ちょっと価値観のバランスがおかしいんだろうなと思う。変わり者、偏屈者。ただそれと同時に、うらやましいなと思ってしまう。
織田信長の事績そのものも、もちろん興味深く読めた。
と同時に、研究者の執念や、本当の仕事とは何か、と考えさせられるところもあり、やはりこういう本は定期的に読まないと自分がみずみずしくなっていかないなと改めて思った。

素晴らしい読書だった。