ローカルという響きの罠 | 世界文学登攀行

世界文学登攀行

世界文学の最高峰を登攀したいという気概でこんなブログのタイトルにしましたが、最近、本当の壁ものぼるようになりました。

21世紀である。
情報の早さが世界を結び、今や誰もが世界市民の時代なのだと思う。


僕も、いろんな本を読んでいく中で、視野が世界に広がっていく実感がある。
日本一国1億数千万人の社会を眺めるよりも、様々な宗教、文化、政治、社会機構に広がる、74億の社会の方が面白いものだ。
そういう発想の中で、ふと思い始めたのは、ジャパンローカルはもういいかなと。


そんな気分の中で手に取った本は、中公新書「観応の擾乱」。
ジャパンローカルの中でもさらにニッチな分野の本だ。
本を覗き込んだ友達は「それ、哲学書?」と聞いた。
学がないなあと思いながら「これは、室町時代の、初代尊氏が、えっと、なんだっけかな」と言葉に詰まってしまう。
まあ、人のこと、言えるレベルではない。


観応の擾乱のメインプレイヤーの一人に高師直という人がいる。
この時代を題材にした、吉川英治の「私本太平記」を読んだことがあるから、この人のことは覚えていた。
とは言っても、虫歯を抜こうとして悪戦苦闘している描写の部分しか思い出せなかったが。


そんな高師直、一般的には極悪人と称せられるほど、評判が悪いそうだ。
なぜ、評判が悪いかと言えば、原書の「太平記」で、極悪人に描かれているから。
しかし、著者は言う。「太平記」で極悪人に描かれているが、ほとんどその根拠はない。
むしろ、極悪人として描こうとしてこの程度だったら、実はいい人だったんじゃなかろうかと。


なるほど。
世の中の大勢が、ほとんど通説のように受け入れている考え方も、元をただせば、根拠のない記載を後世の人が見て、一様にそう思っただけなのかもしれない。
人の口のいかに不確かなことや、真実を見抜く眼を磨くべきこと、事実と事実の間には想像の橋を架けねばならないが、確かな歴史観がなければその橋を架けられないこと。
気づかされること、学ぶべきことがいくらでもでてくる。


僕が忌み嫌っていたのは、ローカルという広がりをもたない地域性にあると思っていたが、そうではなかった。
新しい歴史の波にあらわれてなお、偏狭で頑迷な偏見から逃れられない、盲目的な思想こそが、自分の嫌うものであり、その打破のために、学び続けたいという動機と焦燥があると思う。
新書の価値は、題材そのものよりも、そこに何を見出しているか読み取ることにこそある。
勇気を出して次の一冊、また次の一冊と読破していきたいものだ。