青木裕司「世界史B講義の実況中継」4終 | 世界文学登攀行

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世界文学の最高峰を登攀したいという気概でこんなブログのタイトルにしましたが、最近、本当の壁ものぼるようになりました。

いよいよ最終4巻。
20世紀に入り、2度の世界大戦、米ソの冷戦、そして現代へ。
世界史とは、古きを訪ねる学問ではなく、現代世界の淵源を探り、奥行きを見出す学問である、ということを知る。
大判の受験参考書を読む、という行為は、勇気のいることだったが、読んでよかった。
有意義な読書であった。


歴史の中には、英雄と呼ぶような、キラ星のような個人がしばしばあらわれる。
その個人の行為について、あれこれと思いを巡らせるのは楽しいことだが、今回学んで思ったのは、それは少し違うような気がした。
ある時代、ある地域には、底流をなす、民衆の願望があり、欲望がある。
それは目に見えなくとも確実に流れているものであり、そこに竿をさせば、奔流となり濁流となって、時代を飲み込むエネルギーとなる。
英雄とは、民衆のエネルギーを、正しい方向に導いていく人のことであり、人類の文化の発展に、人々の幸福へ寄与し、後世への礎を築く人を言うのだろう。


逆に、人類は、過ちばかり繰り返している。
その極点は第二次世界大戦であると思うが、それ以降も、常に一触即発の危機をはらみ、とても平和な世界であるとは言えない状況である。
本書では、ヒトラー、サダムフセイン、ビン=ラーディンの名前も出てくる。
マスコミ紙上に名前が踊れば、それは戦争を起こす極悪人の代名詞でもある。
しかし、彼らが単に悪人というだけで、あれだけの戦争が起きるものであろうか。
第一次世界大戦の敗北により抑圧されたドイツ、大国の利害が交錯する中で窮地に陥ったイラク、長年アメリカの介入により無用な血を流し続けてきたイスラム教徒。
個人が体現する時代というものを見なくては、なにも理解したことにはならないと改めて感じた。


歴史には、思っているよりも、仕方がないこと、というものが多くを占めるという印象だ。
巨大な社会の中では、強大な権力を持っていたとしても、個人というものは小さなものである。
歴史にもしはないというが、もし、ということくらいで、為政者の変更くらいはあるかもしれないが、世の中というものがどの程度変わるものか、よくわからない。
しかし、この世界の主体者は、われわれ人間たちである。
仕方がないこと、を乗り越えて、一人一人が幸福に暮らせるような社会を構築していくこと、これが人類一人一人が目指すべき使命なのではないだろうか。


本書を読み終えて、人類が歩いてきた道、これから歩んでいく道について、悠久の思いを抱いた。
もっと学びたい、力をつけたい。
刺激に満ちた読書であった。



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