史記(司馬遷)8-6 | 世界文学登攀行

世界文学登攀行

世界文学の最高峰を登攀したいという気概でこんなブログのタイトルにしましたが、最近、本当の壁ものぼるようになりました。


「大宛列伝第六十三」(P112-137)


大宛とは、中国から見たら北西地方に位置する、今でいうフェルガナ地方のことである。
と、さも知っているかのように書いてみたが、フェルガナ・・・なんか聞いたことある、程度の知識しか僕にはない。
大宛からもたらされた「血のような汗を出す馬」(P124)との記述を見て、汗血馬!聞いたことある!程度の知識である。


大宛の地図をwikipediaから持ってきた。
左(西)の方にある緑色の部分である。
そんなに国としては大きくない。でも遠い。めっちゃくちゃ遠い。






大宛列伝とあるが、実際には西北交流記とでも呼ぶべきもの。
大宛はそのうちの一つの国に過ぎない。


張騫による大宛の「発見」以降、漢の武帝は興味を示し、どんどんと使節を送り込む。
前述の汗血馬を「天馬」と名付け珍重したのは、歴史の教科書では誰もが興味を示す箇所であろう。
西北地方との交流はすすみ、中国の文物が西北にもたらされた。西北からも様々なものが中国に入ってきた。
武帝はたびたび海辺を巡遊したそうだが、示威等のために外国の賓客をことごとく連れていったそうである。
「黎軒(ローマ)の奇術師が加わるようになって、相撲も奇術も年ごとに変化を増した」(P128)という記述を見ると、当時の情景がいろどり豊かに蘇るかのようだ。


もう、史記のブログの中で何度も言っているので、繰り返すことが非常に恐縮なのだが、2000年前の話しである。
壮大な文化交流の歴史がすでにそこにあることに驚嘆した。


さて、西北諸国は、漢の国を文化の進んだ優れた国と尊重していたが、漢から来た使節は非常に軽視されたらしい。
この時代に命を賭して西北に使いした者たちは、そうせざるを得ないほど中国にいても仕方のなかったならずものが多く、要は使節の質が非常に低く、外国の王たちに信用されなかったことがある。
しかし、より大きな原因は、西北諸国にとっては匈奴の方が現実的な脅威であったことのようだ。


大宛列伝は、大宛の馬を武帝が欲したことに端を発する、2度の大遠征により章を終えるが、その軍容は、大軍が黙々と軍を進めていくイメージであった。道中は過酷であり、食糧の問題、遠地による軍規の問題、匈奴に攻められる恐れなどがあり、困難を極めたようだ。1度目の遠征は大宛に着いた頃には兵が少なすぎて攻めることができず、2度目の遠征は戦いによる兵の損失は少なかったものの、「出発した兵は六万人に及んだ」(P132)と言われた軍勢は、帰還した兵は「一万余」(P136)にすぎなかった、という有り様であったようである。「第二回の遠征では、軍の食糧に事欠かず、戦死者もさして多くはなかった。それにもかかわらず、将・吏は貪欲で士卒を愛せず、これを食いものにすることが多く、そのために死ぬものが多かったのである」(P136)」という記述が興味深い。
そこへ行くと、匈奴というのは戦闘民族である。油断するとパカパカパカと馬でやって来て、一気に国の存亡の危機が生じる。漢のことを尊重しつつも、政策的には匈奴を最優先に考えざるを得なかったようだ。


ともあれ、この大宛列伝は、西北諸国との大きな交流のうねりを描いた章であり、非常に広々とした気持ちで読み終えた。史記列伝もすでに武帝の時代に入り、安定の中にある閉塞感のようなものに、それが現実だよね、という思いもあったからなおのこと、さわやかな異国の風が胸の内を吹き抜けたようであった。


余談だが、このブログのテーマである、死ぬまでに読みたい本リストで、史記の次の次の次に読む予定の本に「バーブル・ナーマ」がある。この主人公のバーブルが、フェルガナ、すなわち大宛出身だそうである。この時代から1500年経っているというものの、まったくほとんど何も知らない人だったので、それだけでも非常に親近感がわいてくる。
僕は旅行などほとんどしないのだが、読書によって世界が急速に広がっていくのを感じている。
素晴らしいことである。