二十代の頃、ひょんな縁からギターの演奏の仕事でポルトガルへ赴く機会があった。

 その演奏会の主催者がポルトガルの元「侯爵」家の御仁であるとのことで、まあそうは言っても普通の市民として暮らしているのだろうと高を括っていたらさにあらず。石造りの小さな「城」に住んでいたので腰を抜かした。

 二日間ほどその「城」に滞在したのだが、ベッドは焼いたばかりのパンのようにフカフカで、食事はメイドのような装いの婦人達が給仕する料理を銀の食器で頂くという具合だ。

 ヨーロッパの貴族制度はとうの昔に終わりを告げたのだとばかり思っていたのだが、あれは何だったのだろうかと、25年経った今もふと思い出す。

 

 その食事の席でのことだ。

 食卓の傍らに南蛮屏風らしきものが鎮座ましましている。

 おそらく日本人である私を交えての夕食の席なので、安土桃山時代の南蛮屏風のレプリカを飾って雰囲気を出そうとしてくれているのだろうと思い、「まるで本物のようですね」と迂闊にも言うと、

 

「本物だ。500年前に日本からもたらされたものだ」

 

 と、ポルトガル貴族の末裔が赤ワインを片手に言った。

(南蛮屏風 神戸市立博物館蔵)

 

 ザビエルが来日した室町時代末期から、伴天連(宣教師)追放令が出されるまでの数十年間は、日本の心性史、文化史、宗教史に空前のインパクトを与えた期間だったのではないかと思う。

 この期間の日欧交渉によって生じた熱量、異文化間の摩擦によって生じた高すぎる摩擦熱が、その後の鎖国という、「他者」と向き合う必要の比較的少ない環境を生ぜしめる誘因となったのではないかとさえ、見える(政治史的に様々な要因はあったろうが)。

 日欧交渉は徳川家光の鎖国によって下火(オランダを除いてほぼ消える)となるが、この時代に日本文化が受けた衝撃、いわば「伴天連インパクト」(と勝手に呼ぶ)の振動は、その後も日本の文化の基層で微動し続けてきたのではないだろうか。

 

 たとえば我々が当然のように「日本の伝統文化だ」と考える事物の中で、この時代を揺籃期とするものの一つに、茶の湯がある。

 鎌倉時代に宋からもたらされた喫茶の風習が、千利休によって現代に伝わる「侘び茶」「草庵の茶」として大成されたことは誰もが知るところだが、利休はこの「侘び茶」「草庵の茶」を、伴天連インパクトの激震の真っ只中で大成させている。

 その利休の七人の高弟「利休七哲」のうち四人がキリシタンであり、その四人の中に入らぬ古田織部、細川忠興らもキリシタンと深い交渉をもっていること等からも、利休の周りには日常的にキリシタンとその精神性に触れる機会があったでろうことが推して知られる。

(千利休所持 エヴァとキューピット蒔絵 黒漆塗洋箱 表千家不審菴蔵)

 

 そしてこの時代は日明貿易の末期であり、公式(勘合貿易)、非公式(倭寇)を問わず様々な海上交易ルートを通して東アジアの文物が流入してきている時期である上に、利休自身が当時最大の交易都市である堺生れであることを想えば、東洋と西洋の事物の間でもみくちゃにされている利休の姿が目に浮かぶ。

 

 もっとも利休にとっての「他者」は外国の物や人ばかりではなかったろう。

 信長や秀吉といった異次元の相手もそうであったに違いない。

 そういうゴッツイ「他者」達と押し合いへし合いする中で、凄まじい熱量で焼き締められることで、「唐ものから和ものへ」といわれる利休の侘び茶は形を成していったのではないだろうか。

 

 そういう、社会が均質化される前の、ダイナミックな摩擦が起こる時空間には、時代の淘汰に耐え得る硬質なものを生み出す熱が生じるものなのかもしれない。

 現代に伝わる茶の湯とはきっと、このとてつもない熱量をもった数十年の間にギュッと焼き締められて遺った固形物だろう。

 

 そうした時代がどのような空気を醸すものなのかは、現代の我々には体感しようもないが、かつてポルトガルでたまたま目にしたそれのように、500年前に世界に散逸した南蛮屏風絵には、その一端を垣間見るよすががある。

 

 さて明後日(2025年12月12日)の独演会では、そんな利休の弟子の一人、高山右近と、外国人宣教師として来日し、この茶の湯を通して日本人と意思疎通を図ろうとしたアレッサンドロ・ヴァリニャーノに仮託して、件の時代を疑似体験してみたい。