幕末の動乱期というとどうしても「国のかたちをどうするか」を必死に考えて国事に奔走した志士たちや、様々な行動を起こした学者・思想家・商人・剣客・侠客などの事が頭に浮かぶのだが、国のかたちがどうなろうと、そうした世間の動きに「桶は桶屋よ」と背を向けて、てめえの仕事にだけ没頭した人物の姿を見るのは面白い。

 

 幕末から明治初期に活躍した歌舞伎の女形、三代目・澤村田之助はそういう人であったのではないかと思う。

 

 もっとも、田之助の役者人生の半分が、怪我が元での病との闘いであったことを想えば、芝居をすることが世の中と関わる唯一の術であり「どうやって舞台に上がるか」という切実な主題と向き合うだけで精一杯だったかとも思う。

 

 ただ、同じ演劇人でも九代目団十郎や新富座の座元・十二代目守田勘彌のように、幕末から明治にかけての激動の中で敏感に時流を感じ取り、果ては演劇改良運動にまでのめり込んでいく人々が、周りにはいた。

 そんな中でも田之助は、社会構造や世相がどう変わろうと「真実は芝居の中にしかない」と感じさせる強烈な何かを発していたのではないだろうか。

 たとえ病魔がその四肢をもぎ取っていく中であっても。

 いや、むしろ身体という現実が失われていく中だからこそ、そういう印象を強く与えたのかもしれない。

 

 両脚を失い、右手は手首から先がなく、左手は小指一本を残すのみとなった田之助が舞台に上がり続けることが出来たのは、狂言作者の黙阿弥による工夫と、道具方の長谷川勘兵衛による工夫の合力の結果だったようだ。

 おそらく並大抵の尽力ではなかったろうと思う。

(河竹黙阿弥)

 

 それでも田之助の舞台には、黙阿弥と勘兵衛をして助力を惜しませないだけの何かがあったに違いない。

 舞台で下手な芝居をする共演者に対しては容赦なく難詰したというあたり、

 

「昨日も明日もあるもんけえ。俺には今日しかねえんだ」

 

 という舞台であったろうことが眼に浮かぶ。

 そんな田之助が右脚の切断を余儀なくされ、その復帰興行が打たれたのは慶応四年二月のことだ。

 折しも一ヶ月前に鳥羽伏見の戦いが起こり、徳川幕府崩壊の序曲が鳴り響いた時だった。

 西の戦火が各地に飛び火して、江戸で上野戦争となるのは三か月後という、世情騒然たる中である。

 その最中に田之助が猿若町の三座を掛け持ちしたというのだから、江戸の市民(芝居好きの人々と限定したほうが良いかもしれないが)が彼の中に何かを見ていたことが想像される。

(上野戦争)

 

 岡本綺堂の「三浦老人昔話」の中に、この上野戦争の時に彰義隊の兵士として憤死した、芝居好きの若い御家人の話が出てくる。

 この御家人、芝居好きが高じて面倒を起こし、芝居小屋を出禁にされていたのだが、上野戦争へ出陣する際に猿若町へ寄って芝居見物をする。

 その日の顔付の中に、田之助の名がある。

 

 岡本綺堂の話がどこまでの史実に基づいているかは知らないが、「真実は芝居の中にしかない」と考える人たちの何事かを、この話は柔らかに、しかし確かに言い当てているように思う。

 

 そして明治5年。

 病魔に心身を蝕まれた田之助の引退興行の日がやってくる。

 田之助一世一代の引退興行のために黙阿弥が書き下ろした「国姓爺姿写真鏡」は、文字通り古典「国姓爺合戦」のパロディなのだが、「世界」を現代の英国ロンドンに採っているいるところが肝だ。

 この年、黙阿弥と新富座の座元・守田勘彌は東京府庁から呼び出され、今後の芝居制作についておさとしを受けている。

「近頃貴人および外国人も追々見物に相成候に付ては・・・」

 つまりはエライ人や外国人の観賞に耐え得るものにせよという、後の演劇改良運動にも繋がるお達しだ。

 

 この潮流の中で黙阿弥が何を感じ取り、どのような想いで田之助最期のための「国姓爺姿写真鏡」を書いたかは、本人に訊くことが叶わない今、想像するより他ない。

 明治という時代の幕開けを見ることなく、盟友の四代目・市川小団次が逝ったことと、今また小団次の次代を担うと目されていた田之助が逝こうとしている中で、日ごとに遠のきつつある「江戸」への哀歌が、この「国姓爺姿写真鏡」に聞こえるような気がする。

 

 英国人の妾となった主人公・古今(こきん)が時代の波にさらわれるようにして英国へと渡り、追いかけてきた想い人・彦惣に別れを告げる科白には、何かこう、田之助が見物衆に対して言う別れの言葉であると同時に、去り行く「江戸」への永訣の言葉という二重三重の意味を読み取りたくなってしまうのだ。

 

(※「黙阿弥維新」は2026年3月22日(日)の独演会で口演いたします)