先日、金沢駅の切符売り場に並んでいると、ヨーロッパ系の相貌をした駅員さんが、外国人観光客に英語で切符の買い方を説明していた。
無事に切符を手にした観光客がその駅員さんに「サンキュー」と言って去った後、同じ駅員さんが別の外国人観光客に、こんどはスペイン語で説明をしていた。
当節、金沢駅で職を得るには最低三ヶ国語を自在に操る能力が求められるようだ。
今年の五月、金沢の曹洞宗の寺院で、天保年間より百九十年続く法要の縁起を浪曲にして語るという役目を務めさせてもらった。
私の金沢との縁は、十代の頃からの友人が金沢市内の曹洞宗寺院の住持となった事から始まっており、また数年前に能登の總持寺祖院と関わらせて頂いたという経緯もあって、私がこの地を眺める視点はどうしても、禅林と結びつこうとする。
だがこの時私は、つつじの花咲く禅寺での仕事を終えた翌日、この街を全く異なる角度から眺める視点を、ある人から借りることにしていた。
金沢城の入口の一つである尾山神社の階段下で待っていると、その人が現れた。
高山右近の研究者、N氏だった。
N氏は右近と同じくクリスチャンであり、つい半年ほど前までは高山右近資料館の館長を務めていたという。
そのN氏にいざなわれて、私は金沢城に遺る「右近の痕跡」を辿っていった。
私が口演する浪曲「高山右近 伴天連茶の湯」は、豊臣秀吉から棄教を迫られた右近がそれを拒否し、大名としての身分を剥奪され領地も失い追放されるところまでを描いているが、その後の右近は加賀藩前田家のもとに身を寄せ、この金沢で後半生を送る。
茶の湯と、街づくりをしながら。
N氏は金沢城の石垣のところどころに十字を彫り付けた石があるのを指し示しながら、右近がこの金沢城の築城に果たした役割について説明して歩く。
それらは四百年余の風雪に晒され、言われなければ素通りしてしまいかねないほどに摩耗し、苔の間に埋もれようとしていた。
そうした痕跡の、ひっそりとした、人の耳目を惹かないつつましさの如きものは、秀吉によって追放された後の右近の在り様そのものを想わせた。
高槻の領主でありし日には、あるいはその権勢を以て、キリスト教の精神に則った理想社会を築かんものと望んだかもしれない。
だが右近は太閤から棄教を迫られると、信仰を捨てるよりはと、領国経営の権をポイと捨ててしまう。
流謫先の地でその知見を必要とする者があれば惜しみなく提供するが、それによって世に立とうとはしない。
むしろ自分の成した仕事の上に厚い苔が堆積し、その痕跡が消えてゆくのを、茶を点てながら穏やかに眺めている姿が浮かぶ。
その澄明な潔さには、世俗の利益や栄達と縁を切った者を磁石の様に惹きつける求心力があったに違いない。
事実、秀吉配下の多くの武将が右近の影響でキリシタンとなっている。
古今、権力はこうした感化力を、体制を揺るがす脅威とみなしてきたのだろう。
やがて徳川の治世となり、1614年に切支丹禁教令が出されると、この金沢にも右近の居場所はなくなる。
「徳川から目を付けられないようにすること」
が半ば藩是となっていた前田家としても、右近をかばいきれなかったのだろう。右近は長崎へ護送され、さらにフィリピンのマニラへと逃れ、ほどなくして没している。
言語や宗教が違えば思考のあり方も違う。すなわち見える景色が違う。
禅林から見える金沢があれば、聖書を通して見える金沢もきっとあるはずだ。四百年前、右近の目にこの街はどう映っていたろう。
金沢では弁当を忘れても傘を忘れるなというが、この街に行く時は右近の眼差しも、忘れぬようにしたい。





