戦国時代の武将であり茶人でもあった高山右近が、イタリアから来日したイエズス会の宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノを迎えた地である高槻を、ずっと訪れたいと思っていた。
先月、大阪の一心寺門前浪曲寄席に出演する機会を得たので、昼間の口演を終えてから電車に飛び乗り、高槻へ向かった。
右近とヴァリニャーノの間には、キリスト教の信仰という共通項があったにせよ、イタリアと日本という、飛行機もない時代には万里の波濤を越えて行くほかはなかった物理的距離と、洋の東西に分かれて出自を持つことから生じる文化的隔たりがあったはずだ。
事前に知り得る限りのことは調べていたので、右近がヴァリニャーノを迎えたであろう高槻城の城郭も城主御殿も現存しないことは知っていた。
それでも、そんな二人が共に眺めたであろう高槻という土地の空を、見上げてみたかった。
高槻市は周りに標高の高い山がないせいか(最高峰でポンポン山の678.8m)、空が広く感じられた。
その空が、暮れかかっていた。
二月の日没は早く、高槻の駅を降りた時、陽は既に西に傾いていた。
沈みかかっている太陽とにらめっこをしながら、速足で高槻城下を目指した。
高槻城は、往時は東西510m、南北630mの外周を堀で囲われた惣構構造であったそうだが、現在その堀は地中に埋もれている。
本行寺という古刹の高麗門が突然視界に入ったことで、いつの間にか城下に入っていたことが知れた。
そこから歩いてすぐの所に、高槻城跡はある。
今は本丸跡は高校の敷地となり、城主御殿があった二の丸跡には立派な芸術文化劇場が建っている。
この高槻城下で貧しいキリシタンが亡くなると、右近が自らその棺を担ぎこれを埋葬したという逸話を、宣教師ルイス・フロイスが書き遺している。
厳格な封建性が主調であったはずのこの時代において、太守(大名)の行状としては奇異にも映るこのエピソードは、主客一体を旨とする茶の湯の精神と、神の前に人は平等であるとするキリスト教の教えが、右近の中で互いに補強し合うものであったろうことを窺わせる。
また1581年春、京都へ向かう途上のヴァリニャーノがここへ立ち寄った際、右近はキリスト教の復活祭の式典を催し、セミナリヨ(神学校)の少年たちによるグレゴリオ聖歌やパイプオルガンの演奏をもってヴァリニャーノらを迎えたという。
だけでなく、右近は能楽師たちによる能を、ヴァリニャーノに観賞させたという。
自分たちが如何にキリスト教に帰依しているかということの表明だけでなく、右近はこうしたパフォーマンスをもって日本の精神性を異邦人たちに伝えようとしたのかもしれない。
後にヴァリニャーノは、日本で建てるキリスト教会(南蛮寺と呼ばれた)には必ず茶室を造らせ、その作法と日本語の習得を宣教師達に課すようになるのだが、右近との関りの中で日本人との接し方を学んでいったという部分も少なくなかったのではないだろうか。
そうした風景を脳裡に描きながら、またそれらを眼前の風景に重ねながら、陽の沈む寸前の城下を歩いてみる。
「強制を逃れ、昼も夜もさまよえ。世界は大きくて広いのだ」
とは、中世スペインのコルドバが生んだユダヤ人哲学者マイモニデスの言葉だが、右近という中世人はこの遥か西方の哲学者の謂いを地で行った人という印象を受ける。
直属の上司である荒木村重が織田信長に反旗を翻し、村重と信長の狭間で板挟みとなった時、また豊臣秀吉からキリスト教の棄教を迫られた時、そして後に徳川幕府がキリスト教禁教令を発布した時・・・
人生の幾度かの局面において、右近は所有する全てのものや築き上げて来たもの一切を、えいっと手放して流謫の身となることを厭わなかった節がある。
最期を迎えた地がフィリピンのマニラであったという顛末も、上記の哲学者の言葉を地で行っただけであったのなら、本懐を遂げたといえなくもない。
権謀術数、策略に調略、裏切り寝返り・・・そうしたものが渦巻く往時、一途な信仰や清廉さは生きづらさの基であり続けたろう。
秀吉によって領地と身分を剥奪され、加賀前田家の客分となった後半生、右近は信仰と茶の湯に専心する日々を送り、求められれば前田家のために城を築くなどしたが、戦国の表舞台に返り咲くことはなかった。
目の前に現れた、ほぼ陽の落ちた広い空に屹立するような右近の彫像は、私の眼にだが、強い信念や一徹さを持つ者が世間と折り合いをつけてゆくことの難しさを一身に体現しているように映った。
2026年3月22日の独演会では、その高山右近とヴァリニャーノの関りを描く、「高山右近 伴天連茶の湯」を、初めて佐藤一貴さんとのダブルギターで口演する予定。
乞うご期待。




