『ティファニーで朝食を』(トルーマン・カポーティ) | タブンダブン

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流浪のライター、かげぎすのブログ。書評、映画感想、洋楽の和訳などいろいろとやっています。

『ティファニーで朝食を』(原題:Breakfast at Tiffany’s  [1958] / トルーマン・カポーティ Truman Capote / 訳:村上 春樹 / 新潮文庫 / 2008)を読みました。

 

 

 

 

訳は村上春樹氏です。彼のファンなら、間違いなくこの本を手にされていることでしょう。

 

なににもましてこの小説のタイトルは、映画としてもあまりに有名ですよね。

 

さすがにこの作品の存在を知らない方、聞いたことのない方はいないでしょうが、しかしたいていのばあい、『ティファニーで朝食を』と聞けば、まっさきにオードリー・ヘップバーンを思い浮かべるのではないかと思います。

 

 

じっさい僕自身もそうでしたからね(‘;’)

 

嘘か真か、女性のファッションにサングラスが取り入れられるようになったのは、劇中のヘップバーンの影響なのだとか。

 

 

とまあ、そんな逸話は置いておくとして、さっそく原作の内容に入っていきましょう。

 

 

 

 

1.トルーマン・カポーティ(1924-84)とは?

 

アメリカ生まれ。

 

弱冠19歳にしてオー・ヘンリー賞(短編作家オー・ヘンリーに由来する短編文学賞です。これまでにブログで紹介した作家も取っていますよ!)を受賞し、天才とうたわれます。

 

20代も順調に作家としての地位を堅実に築き、30代は劇脚本や短編をコンスタントに執筆し、そんななかで『ティファニーで朝食を』を書き上げました。この期間はカポーティにとって華の時代だったと言えるでしょう。

 

村上春樹氏のあとがきによれば、カポーティは『ティファニー』をして「第二のキャリア」であると明言していたようです。つまり、作家人生としてまた“一皮むけた”と自負する作品だったわけです。

 

周知のように、時を待たずして『ティファニー』は映画化されます。

 

あとでその理由はわかりますが、じつはカポーティ、主要キャラクターの女性をヘップバーンが演じることに不満がありました。ほんとうはマリリン・モンローがよかったそうです。

 

けっして彼は、自分のスケベ心をかきたてられないヘップバーンを嫌ったのではありませんよ。配役にモンローを所望したのは、原作のイメージにぴったりだったからなのです。

 

しかし残念ながらモンロー本人からの承諾を得られず、ヘップバーンに白羽の矢が立ちます。それは同時に、映画版『ティファニー』が原作とはまったく違った作品になることを意味しました。

 

誰が悪いわけでもないでしょう。ヒロインのイメージと作品の雰囲気をうまく擦り合わせなければならないのは世の常。

 

なぜなら、小説が読者の想像力にゆだねられてこそ面白さが成立するのだとしたら、映画は観客の視覚に訴えてなんぼの創作作品だからです。

 

 

 

……結果的に『ティファニー』は、いわゆる“大衆受け”のいい娯楽映画として大成功をおさめます。

 

“まあ、これもいいんじゃない”とカポーティはこれを受け入れますが、面白いことに、村上春樹氏は、”そろそろ原作リスペクトしたリメイク映画つくれよ”と訴えています。

 

訳者の魂の叫びですね。

 

 

ところで唐突ですが、カポーティはゲイです。あの時代にあって、はやくも彼はカミングアウトしちゃってます。最先端ですね。

 

そんなカポーティは、日本で三島由紀夫と会ったことがありました。文壇界のホモ同士、やはり通じ合うものがあったのでしょうか、世界のミシマは喜んでカンゲイしたと言います。そのときのようすをカポーティはこう振り返ります。

 

「おもしろい人であった反面、大変傷つきやすい人であった」(wikiママ)

 

うーん、なんだか意味深ですね。

 

そんな愉快なカポーティですが、『ティファニー』のあと、いったん迷走期にはいり、逆境をのりこえて名著『冷血』を執筆します。これは、ノンフィクション小説の草分けとなった記念碑的な作品で、以後、多くの人々に影響を与えています。読書家でも知られるアーティストのデヴィッド・ボウイが読んでいたことでも有名(ファンのあいだでは)です。

 

しかしかし、それから先のカポーティの人生は、けっして幸福とは言えませんでした。

 

ドラッグとアルコールに溺れる毎日を送り、1984年、迷惑なことに最後は友人宅の家でぶっ倒れてそのまま天国に。享年60歳。

 

その文章からは想像がつかないほど、もともとカポーティは派手な私生活で知られていたようです。そんな彼から小説を取り上げたら、ただの小太りのジャンキーです。

 

皮肉めいたことを平気で言ってはかならず誰かを不愉快にさせたカポーティ。しかしそれでも彼は、憎めない愛されキャラだったみたいです。

 

 

そろそろ内容にいきましょう。

 

 

 

2.あらすじ

 

「死んだか、精神病院に入れられたか。それとも結婚したか。あるいは身を固めて、この街のどこかに暮らしているかもしれないよ」

 

第二次世界大戦より数年後のニューヨーク。

 

とある街の一角で、主人公こと「僕」は、行きつけのバーの店主“ジョー・ベル”にそう言いました。

 

話題は、かつてこの街にいた一人の女性。彼らの共通の知り合いです。

 

 

――“彼女”はいま、どこでなにをしているのだろう。

 

――この街を去ってから、どんな人生を送っているのだろう。

 

「僕」とジョー・ベルは、あの強かに生きた“彼女”に思いめぐらせます。それを考えてみたところでなにもわかりっこないのに。

 

“彼女”――ホリー・ゴライトリーと音信不通になって、かなりの時間が経っていました。

 

しかし、ホリーを知る「僕」たちには、連絡があろうとなかろうと、おなじことだったのかもしれません。

 

英語もまともに通じない辺境の地で暮らしているというならば、それはそれで彼女らしいと思えたはずだし、あるいはまた、不幸な出来事に巻き込まれてとっくに死んでいたのだとしても、 それはホリー・ゴライトリーが辿りうる結末のひとつとして納得ができたからです。

 

「いずれにせよ、彼女の行方はわからない」

 

と「僕」は店を出る間際に言いました。外は十月の雨が降りしきっています。

 

「ああ、行方はわからない」

 

“彼女”に親愛の情を抱いていたジョー・ベルはうらさびしげに言います。いまや消息不明となったホリー・ゴライトリーは、彼の心に大きな影を落としているようでした。

 

 

以降は「僕」の回想です。ホリーの存在感が日増しに大きくなっていった、戦中の穏やかなニューヨークへと時間がまき戻ります。

 

きっとそのとき、「僕」の頭のなかでは、在りし日のホリーが放った名(迷)言が反響していたにちがいありません。

 

「馬鹿な女友だちが一人いて、私にいつも精神科の医者に診てもらえっていうの。ファザー・コンプレックスに違ないからって。とことん詰まらないこと言うわよねえ。だって私は年上の男を好きになるように、自分をせっせと訓練したってだけのことなのよ。そしてそれは文句なしの大正解だったわ。サマセット・モームっていくつくらい?」

 

 

「それはそうと、あなたの知り合いに、気立てのいいレズの子っていない? 私はルームメイトをさがしているわけ」

 

 

「ここからドアまで歩いてだいたい4秒かかるんだけど、それをきっかり2秒で行ってちょうだいね」

 

 

『ティファニーで朝食を』。

 

それは、「僕」がホリーと共有した過去の断片であり、それが紡ぐ物語なのです。

 

 

 

 

 

 

さて、まんまとカポーティの催眠術にかかり、自分がジョー・ベルの店で飲んでいると錯覚した読者ならば、こっそり盗み聞きした「僕」とジョー・ベル店主の話が気になって仕方ないはずです。

 

 

これから一日のうちの数時間を、ページをめくり、まためくるという単調で退屈な作業を繰り返すために費やす気でいるというのなら、その唯一の動機はまさにホリー・ゴライトリーにあると言えるでしょう。

 

 

もちろん奇術師カポーティは期待を裏切りません。名誉アシスタントハルキ・ムラカミがホリー・ゴライトリーの数奇な人生をとくとお見せいたします。

 

 

 

3.けっきょくどんな物語なの?

 

 

単刀直入に言いましょう、

 

正直僕にもよくわかりません。

 

 

いや、言ってやれないことはないですよ? ホリーという女性にふりまわされた「僕」とその他多くの男たちの物語――ってな具合に。

 

 

まあ、もうすこし内容に立ち入ってみましょう。それすれば、僕の言っていることがわかると思います。

 

 

 

ホリー・ゴライトリーは変わった女性です。同じアパートに住んでいた「僕」は、ひょんなことから彼女と関わりをもつようになるのですが、それまではホリーをずっと赤の他人――別の世界の住人――のように思っていました。

 

むしろどちらかと言えば、あまり印象は芳しくなかったとさえ言えるでしょう。

 

「訊ねてきた親戚が一度僕を「トゥエンティー・ワン」に連れて行ってごちそうしてくれたが、そこの上席になんとミス・ゴライトリーが、四人の男たちに囲まれて座っていた。……ミス・ゴライトリーは人目をはばからず、悠然と髪を梳いていた。その表情や、かみ殺したあくびは、ニューヨークでも有数のファッショナブルなレストランで食事をしているんだという僕の気持ちの高ぶりに、みごとに水を差してくれた」

 

この文章、すごく気に入っています。ホリー・ゴライトリーの人となりを読者に瞬時に理解させるとっておきのエピソード紹介だと思います。

 

 

なにを隠そうホリーは、社交界で顔の利くちょっとした有名人なのです。

 

けれど、出自が特別良いわけでもない。

 

事実だけを言えば、彼女は女優をめざしてニューヨークにやってきた、もとはひどい発音の英語を使うたんなる田舎者でした。

 

そんなホリーが、アパートの自室にたくさん人を呼びつけて夜ごとドンチャンさわぎをしたり、社会的地位のある男性たちから気に入られたりするのは、持ち前の自由奔放な性格と、ほかの女性にはない独特の雰囲気が魅力的だったからなのでしょう。

 

それは同時に、彼女が性に奔放だったことをほのめかします。

 

じつは、ホリー・ゴライトリーがもともとこういったキャラクター設定だったために、自分が”セックスシンボル”としてみられることを嫌っていたマリリン・モンローに出演を拒否されたのです。

 

 

『ティファニー』が発表されたのはまだ1950年代。女性の性にたいする価値観が一変して、いわゆる”フリーセックス”という新時代を象徴する概念が社会に根をおろすよりもまえの時代です。

 

カポーティのキャラクター造形の卓越性もさることながら、ホリー・ゴライトリーという奇抜で斬新な女性像がその当時に提示されたことを鑑みると、『ティファニー』はとても意義のある作品だなと思います。

 

これは勝手な想像ですが、ホリーの性に対するオープンさは、ゲイとして生きるカポーティの抑圧された欲求を体現しているのかもしれません。

 

 

……どうです、なんか専門家っぽいこと言っていると思いませんか?

 

 

閑話休題。

 

 

じっさいのところ語り手の「僕」も、当時は「常にサングラスをかけて」、「粋なかっこう」をしたホリーに関心を持たないでいることは難しかったようです。

 

なにしろ同じアパートに住んでいるわけですから、彼女と顔を合わせることはしょっちゅうでした。

 

 

やがてふとした出来事から、「僕」はホリーと関わっていくことに。

 

いざ話してみると、たんなる“バカ女”ではなさそうだということがわかってきました。

 

彼女は誰にも取り除きがたい“心のしん”をしっかり持っていて、独特の世界観のなかで生きている――「僕」はホリーの人間性を垣間見るのです。

 

 

なかばなし崩し的にではありましたが、けっきょく「僕」は、ホリーと遊ぶようになります。彼女の素敵なお仲間も紹介されたりして、ますますホリー・ゴライトリーの知られざる“生の領域”に踏み込んでいくわけです。

 

 

けっきょくのところ『ティファニーで朝食を』は、主人公(あるいは、語り手)の「僕」の回想というかたちにのっとった、いわばひとつの“日記”でもあります。

 

しかし皮肉な言い方をすれば、この小説には、物語性というのがいくぶん希薄なのです。

 

 

 

4.『ティファニーで朝食を』の魅力はどこに見出せるのか

 

 

ATTENTION:

もしもあなたがハルキストならば、彼の関わった作品すべてを無条件で呑みこむ特殊な訓練を受けているはずですので、ここから先は読む必要がありません。

 

 

 

 

 

……たとえば『ノーサンガー・アビー』には、主人公キャサリン・モーランドが男性に恋をして、その行方を描くという【目的】があります。

 

想像力が豊かすぎる方ならまだしも、このばあい、たいての読者なら、『ノーサンガー・アビー』という物語それじたいの目的・性質というものを明示的であれ暗黙的であれ了解しているはずです。

 

「いずれ物語は、キャサリンの恋が【実るのか/実らないのか】のどちらかに向かうのだろう」、と。

 

そして、その結末への期待がページを繰る動機になるわけです。

 

作者のジェイン・オースティンも、とうぜんそのつもりで書いています。「さあ、読者のみなさん、われらがヒロイン、キャサリン・モーランドのドタバタ恋物語をたのしんでくださいね!」――オースティンのことです、きっとうきうきしながら執筆していたのではないでしょうか。

 

 

ところがこの『ティファニー』には、明確な目的がない。

 

もしもこの作品が、【住んでいる世界も価値観もちがう「僕」が、ホリーという一風変わった女性に恋をしていく物語】であるならば、いっきにエンターテイメント性が高まるに違いありません。

 

しかしじっさいは違います。恋愛という目的のもとで【僕】と【ホリー・ゴライトリー】を描いたのは、映画版のほうです。

 

 

たしかに、「僕」がホリーに惹かれていたのは事実でしょう。じっさい、淡い淡い恋心を抱いていたのかもしれません。

 

けれども、恋の物語としては不完全です。なぜならホリー自身が、「僕」のことをどう思っていたのか最後までわからないからです。

 

しかも――味わってみるとわかるのですが――物語のロマンス成分はほとんど配合されていない。だからなおのこと、『ティファニー』を恋愛物語としてみなすことを難しくさせます。

 

では、この作品は何なのか?

 

読み終えたあと、僕はこう思いました。

 

『ティファニーで朝食を』とは、読者がホリー・ゴライトリーという変わり者を「僕」といっしょになって眺め、また、彼女にふりまわされていく男たち(「僕」もまちがいなくそのひとりに含まれています)のようすを楽しむ作品なのではないか、と。

 

『密着!ホリー・ゴライトリーの奔放生活!』

 

ってな感じです。

 

 

しかし一方では、ホリー・ゴライトリーというキャラクターにはじゅうぶんにエンタメ性があると思います。

 

ややネタバレにはなってしまいますが、「僕」とホリーはけっきょく肉体関係を持つわけでもなく、互いのなかで愛を確信するようなこともとくにありませんでした。

 

ホリーはわりと面食いなので、冴えなくてたぶん顔がイケてるわけでもない「僕」を、そもそも恋愛対象としてみていなかったのだと思います。“いい友人”として接してきたのだろうということは、本文を読んでみればすぐにわかります。

 

 

もしも「僕」が気づかぬうちにホリーに恋心を抱いてしまっていたのだとしたら、それは彼が夢みた小説家になること以上に難しいことだったにちがいありません。

 

とはいえ、巷を騒がせるホリー・ゴライトリーという有名人から“いい友人”と言われることは、なかなか名誉あることなのです。

 

もしかしたら「僕」は、ホリーに振り回されたあの日々を、どこかで誇らしく思っているのかもしれません。

 

読者は、語り手の「僕」と一緒にホリーの変人っぷりを目撃する一方で、「やれやれ」とひとりごちながらそれでもホリーのわがままに付き合う「僕」の姿をまた一歩離れたところで見守るのです。

 

少なくとも僕は、そんなふうに『ティファニーで朝食を』を楽しませてもらいました。どんな視点に立つかで、作品の味わい方はまったく違ったものになる。そのことを学ばせてもらったような気がします。

 

 

あと、村上春樹氏の訳は言わずもがな最高でした。喉に異物が刺さったような言葉の”つっかかり”はまったく感じられず、するりと滑らかな訳文。ハルキストでなくとも、よい文章の手本として何度も読み返すべきではないかと思います。