ウチの牧田和久さん㊥ | 心の扉をあけて♪

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1/31付 日経夕刊の続き、第2弾です。



心の扉をあけて♪


静岡県焼津市の公立中から藤枝市の静清工高(現静清高)へ。

野球部に入部した当初の牧田和久は、体も細身で目立つ存在ではなかったという。

同校野球部の藪崎雄大部長は「とにかく寡黙でおとなしい子という印象だった」と振り返る。


スリークオーター気味だった投球フォームをアンダースローに変えるよう指示されたのは

高校1年の秋。

その理由を、本人は「同学年に140キロを投げる投手がいた。

うちの高校は毎年、(2番手として)打者の目先を変える技巧派を用意していたので」と推し量る。

だが、藪崎の見方は違っていた。

キャッチボールやランニングでの柔らかい身のこなし、手首の強さに目を付けた。


「球の速い子はほかにいたが、野球センスは牧田のほうがあった。

下半身もできてきて、下手にしたら伸びしろがある」と考えた。

ブルペンで試しに投げさせると、ソフトボールの投球のようにポップする球筋。

藪崎は確信する。

「高目の直球だけで勝負できるな」。

豪腕の1番手に押し出されての転向ではなかったわけだ。


牧田は新しい投法をひょうひょうと受け入れた。

「下手はプロにもいないから面白いかな」くらいの気分で取り組んだが、

練習試合で自信を深めると著しい成長を示した。

当時の投球は、緩急を身上とする今のスタイルとは異なるもの。

「緩いボールは見たことがない。

力任せに直球を投げ込み、いつもの2桁三振を取っていた」。

藪崎の回想だ。


主戦に定着した2年秋には東海大会に出場したが初戦で敗れた。

3年夏の静岡県大会は練習中に打球を受けた影響で調子を崩してベスト16で敗退。

甲子園には縁遠かったが、この県大会で進学先となる平成国際大の大島義春監督に

見始められている。

観戦していた大島の狙いは当初、別の投手に向けられていたという。

「左腕か長身の子が欲しい」。

堂々抱いていたその考えを、

たまたま前の試合で投げていた下手投げの右腕投手は一瞬でひるがえさせた。

「股関節と骨盤周りの使い方がうまく、

上半身と下半身のバランスが素晴らしく、瞬発力も備えていた。この子はいける」


「何を改善するトレーニング」なのか選手自身が理解しないと意味はない」という

理論派の大島の下で、大学時代の牧田は「想像力」に磨きをかけた。

パソコンの画像解析ソフトを使い、関節の動き、直球と変化球を投げ分ける際のフォームや

体重移動の違いなどを細かくチェック。

投球練習でも球数にこだわるより、

理想のイメージに実際の動きを近づけることに神経を集中させていたという。


こうした努力が実を結び、関甲新リーグでは通算19勝。

2年時には大学日本代表にも選ばれるなど実績を重ね、

社会人野球の名門、日本通運へと進む。


「柔軟性があるから体の一部に無理な負担がかからない。

だから厳しい練習を積める」と大島も太鼓判を押す強い体を武器に、

成長の階段を一歩一歩と着実に上がっていく右腕の前途は大きく開けているかに映ったが、

ここで初めての大きな試練も待ち受けていた。



(敬称略)