『目線を変える』
加賀海 士郎
“成人の晴れ着談義や孫の顔”
義姉夫婦が孫の成人式の借用にと久し振りに来訪した。我が家の娘たちは四半世紀前に
成人しており女の孫がいないので晴れ着が活躍するのは専ら、知人友人の家族で今でも時々
遠出している。
いわば晴れ着の出張だが、今回は久し振りに家内の妹の孫が、往年の我が娘の晴れ姿を
写真で見て気に入ったらしく、是非、使わせて欲しいとなったのだがやっぱり成人の晴れ着は
和服に人気があるとか。
貸衣装代も馬鹿にならないらしく正絹の染の佳いものだと20~30万円はかかるとか、一生に
一度の晴れ着ぐらいしっかりしたもので記念写真を取って置きたいという事らしい。いまは便利な
時代でスマホにて情報交換し近畿圏なら車で脚を延ばせば直ぐまとまる話だ。
正月の晴れ着の話が親戚縁者や今は亡き親兄弟の想いい出話にまで繋がるのだから有難
いことだ。日頃何気なく過ごしているが日常の慶弔やイベントなどはそれなりに絆を深めるのに
役に立っているのだ。暮らしの上での知恵というやつだから人並みに付き合っていけることに感謝
しなければなるまいなどと思い直しながら届いたばかりのPHP2月号の裏表紙に目をやれば
標題と共に次のようなメッセージがありました。
「ゴルファーがボールをカップに沈(しず)めるために、グリーン上を歩き回り、違(ちが)った位置
からボールを見る。盤上(ばんじょう)で勝負する将棋(しょうぎ)は座(すわ)ったまま対峙(たいじ)
するが、棋士の中には相手の側から形勢を探(さぐる)人もいる。
実際に身体(からだ)を動かし目線を変えるのは、固定した場面から全体を把握(はあく)する
こと、また主観に頼(たよ)らず、より客観的に事態を把握することのむずかしさから来るのであろう。
勝負事ならなおさらだ。
・・・中略・・・
しかしながら、仕事、人生でも勝負事同様、重要な局面は静かに訪(おとず)れる。そこでは、
やはり大局的に、客観的に、思考を集中させなければいけない。適当にすると判断を誤る。
だからこそ、時には意識的に己(おのれ)の主観を揺(ゆ)さぶる行動をとって良いのではない
だろうか。寄り道をする。会議の場所を変える。目線を変える些細(ささい)な工夫(くふう)が、
大局観を持った自分へと成長を促(うなが)してくれるかもしれない。」
それなりに長い人生を歩んでくると「目線を変えろ」という忠告は何度か経験してくるから、いつ
頃からか筆者は反対側から自分を観ることを心掛けるようになった。
(※5年前に「向かい側から観察せよ」というエッセイを記している。
道標(みちしるべ)第二章 独り立ちの頃(パートⅡ) | 加賀海士郎の部屋❝学水舎❞ (ameblo.jp)
今読み返して見てもまっとうな自分へのアドバイスになっていると思う)
それはそうとして、近頃は年のせいか、やたら探し物が多くなった気がする。多分に物忘れが
進んでいるようにも思うが、最近読んだ久坂部羊医師の「人はどう老いるのか~楽な老い方、
苦しむ老い方」(講談社現代新書)に見る限り、老いはそれほど恐れることはなさそうだから、
“生者必滅、会者定離”は自然の理(ことわり)として受け容れることだと言い聞かせている。(完)