『落語を聴いてみたけど面白くなかった人へ』を連載させていただいている
月刊『望星』(発行・東海教育研究所 発売・東海大学出版部)の3月号が発売になっています!
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望星 2018年 03 月号 [雑誌]
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http://www.tokaiedu.co.jp/bosei/
よろしかったら、ぜひお読みください。
地味なおじさんがひとりで出てきて、もうよく知っている噺を、あらためてくり返して語る。こういう言い方をすると、落語って、ものすごく面白くなさそうです。でも、じつは「地味」「ひとり」「同じ噺」というところにこそ、派手な新しい噺を大勢でやるのではありえない、独自の面白さがあります。
その魅力のひとつは「細やかさ」ということではないかと思うのです。細やかさへの誘いが、日本の古典には共通してあるように思います。そこが、今の人にはすぐにはピントこないところかとも思います。今回はその「細やかさ」について書いてみました。
「失明宣告を受けた人間が、最後に見る眼で、街を描写すること」
小説家の安部公房が創作ノートに記していた言葉です。なんでもない風景でも、そういう眼なら、とても細やかに見ることができます。
「細やかさ」には、気づいているようでじつに気づいていない、新しい現実の発見があります。
この落語の連載も、あと1回、来月号で最終回です。
落語について、好き放題に書かせていただいた、じつに幸せな連載でした。
落語の起源は、じつは世界中の口承文学にあり、口承文学の語り口は、カフカのような前衛文学につながっていて、さらにまだ汲めども尽きぬ可能性を秘めています。
テーマが壮大すぎて、なかなかうまく書けませんでしたが、落語というのもが、「日本のもの」「古典芸能」「笑い」といった狭い範囲だけにおさまるものではないことを、少しでも感じていただけたら、嬉しいなあと思います。