約五〇年後の一八八三年にカフカは生まれています。
現実には、二人が対話をすることはありえません。
しかし、ゲーテには、作家のシラーという、
ゲーテとは正反対の性格で、カフカに少し似たところのある親友がいました。
そして、カフカは、
じつはゲーテを愛読していました。
カフカが愛読した作家というと、
キルケゴールやクライストやディケンズやフローベールなどが有名です。
キルケゴールに関しては、
「少なくとも彼は、この世界の同じ側にいるのだ。
友人ででもあるかのように」
と日記に書いています。
また、フローベールなどに関しては、
「自分の本来の血族と感じている四人の人間、
グリルパルツァi、ドストエフスキー、クライスト、フローベール」
と恋人への手紙に書いています。
これらの作家は、カフカに似ているところがあるので、
カフカが愛読するのは、とても自然で、納得がいきます。
ところが、
カフカの日記や手紙に、
いちばんたくさん登場する作家は、
じつはゲーテなのです。
ちゃんとは数えていませんが、
すべて合計すると、200回近いかもしれません。
カフカはわざわざ旅行をして、
ゲーテが住んでいた家を訪れていますが、
カフカがそんなことをした作家も、
ゲーテだけです。
ギムナジウムの卒業のスピーチにも、
カフカはゲーテを選んでいます。
他にはそういう生徒はいなかったそうです。
『カフカとの対話』の中でも、
青年ヤノーホに、ゲーテの名言を語っています。
恋人にしばしばゲーテの詩を朗読していますし、
亡くなる前にも、つきそっていた恋人にゲーテの詩の朗読を頼んでいます。
「ゲーテへの愛情は生涯、少しも変わることがなかった」
とカフカの親友のブロートも書いています。
ただ、その愛情は、
「この世界の同じ側にいる」キルケゴールや、
「血族と感じている」ドストエフスキーなど
に対するものとは、大きくちがっています。
というのも、
強い愛情を感じる一方で、
激しく反撥も感じているからです。
たとえば、
「ゲーテについて(ゲーテの会話、学生時代、ゲーテとの時間、ゲーテのフランクフルト滞在)
読んでいるときに、
ぼくの全身にみなぎる熱情」
「まるで全身で駆けぬけるかのように、ゲーテの文章を読んでいる」
「激烈な印象がぼくの心をひっさらって行く(ゲーテの伝記本を読んでの感想)」
などと日記に書いている一方で、
同じく日記で、ゲーテ一家について、
「このような極端を見てはじめて、
人はすぺての人間がいかに救いがたく自己を失っているかが判る」
とも書いています。
また、カフカは手紙にこんなことを書いています。
「ぼくは、ゲーテが死ぬ日の十時頃、
熱に浮かされて言った言葉を読んだところですが、
それを忘れることはできません」
それはどんな言葉かと言うと、
ゲーテは、うわごとで、
美しい女性を賛美するのです。
手紙の恋しかできないカフカにしたら、
82歳の高齢で、しかも死ぬ直前の弱った身体で、しかも熱に浮かされた状態で、
それでもまだ、女性の美しさをうわごとで賛美するゲーテは、
まさに驚異的であったでしょう。
「創作における私の喜びは無限だった」
というゲーテの言葉も、
カフカは日記に引用しています。
コメントはつけていませんが、
カフカはどんな気がしたでしょう。
ゲーテが、
「立派な身なりをして、人気があって、元気よく、
どんな人たちの中でも平気で入っていき、
目に見え、耳に聞こえるものは、
なんでも見聞きしようとする」
こともカフカは日記に記しています。
人間関係、交際が苦手だったカフカは、
こうしたゲーテの様子が書いてある自伝について、
「いつか無邪気に読めるときまで待とう」
と書いています。
ゲーテの明るさ、強さへの尊敬とあこがれ、
そして、それと同じくらい強い反撥。
カフカのゲーテへの気持ちは愛憎半ばしています。
私がゲーテを読むのようになったのも、
そうしたカフカのゲーテに関する言葉に興味をひかれたからです。
まだ闘病生活中で、
私も最初は、かなり反撥を感じました。
ゲーテはあまりにも恵まれすぎています。そして、頭にくるほど明るい。
でも、それがあんまり行き過ぎているので、思わず笑ってしまいます。
その突き抜けた明るさには、やはり励まされるものがあります。
なんとも魅力的で、面白い人です。
気がつけば、そのときどきによって、
カフカの言葉を支えにしたり、
ゲーテの言葉を励みにしたりしていました。
今回の本を編んだのは、
そうした経験からでもあります。
希望名人ゲーテと絶望名人カフカの対話/飛鳥新社

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