<Transpoetics Ⅱ X&俳句>特集
に寄稿させていただきました。

「カフカの詩的な言葉はどのように成り立っているのか?」
という題で書かせていただきました。
私は俳句に関してはまったく門外漢なのですが、
それなのに書かせていただいたのは、
俳人の九堂夜想氏より、
カフカの
「鳥籠が、鳥を探しに出かけていった」や
「我々の救いは死である。しかしこの死ではない」などの言葉は、
優れた一行詩と見紛うほどだ、とのご指摘を受けたからです。
たしかに、カフカの言葉は詩的であり俳句的であると私自身も感じていました。
この場合の「俳句的」というのは、
非常に短い詩的な言葉の内に、大きな世界が感じられる
というほどの意味ですが。
なお、
クラシックと現代音楽が大きくちがうように、
芭蕉などの俳句と、現代の俳句も、
すごくちがっているんですね。
現代の俳句のことはまったく知らなかったので、
驚いています。
たとえば、この号に載っている、九堂夜想氏の俳句。
湖(うみ)の死や未明を耳の咲くことの