カフカが二度婚約し、二度婚約破棄した、
フェリーツェ・バウアーという女性がいます。
カフカとつきあっていた当時、
彼女は「パルログラフ」の営業をしていました。
「パルログラフ」というのは、
「口述録音器」です。
マイクのついた箱形の小ぶりな機械で、
マイクに向かってしゃべると、
中に入っている円盤に、
音声が記録されます。
その音声を、あとでまた再生することができます。
ようするに、声を録音しておいて、
あとでテープ起こしをするための機械です。
カフカと同時代にプラハを中心に活躍していた
グスタフ・マイリンクという作家は、
長編小説ゴーレムを、
パルログラフによる口述筆記で執筆しています。
カフカとフェリーツェが出会ったのも、
フェリーツェが親友の作家ブロートの家で、
パルログラフの説明をしているときでした。
カフカは執筆にパルログラフを使うことはありませんでした。
でも、カフカは意外に機械好きです。
労働者傷害保険協会勤務という仕事柄、
工作機械などをよく目にしていましたし、
最新の機械の欠陥(指の切断事故が起きやすい)を見抜いて、
それを指摘する報告書を書いたりしています。
カフカの『流刑地にて』という小説には、
罪人の身体に、針が罪を刻みつけるという、
怖ろしい機械が出てきますが、
これはパルログラフに構造がよく似ています。
フェリーツェによってパルログラフを知ったことが、
影響しているだろうと言われています。
さて、カフカはフェリーツェと出会った感激から、
「判決」という作品を書き上げます。
この作品には「Fへ」という献辞があります。
フェリーツェに捧げられているのです。
「判決」は、カフカがカフカになった(自身の方法に到達した)、
記念すべき作品です。
長くなりますが、「判決」を書き上げたばかりのカフカの感動的な日記を引用します。
「この『判決』という物語を、
ぼくは二二日から二三日にかけての夜、
晩の十時から朝の六時にかけて一気に書いた。
坐りっ放しでこわばってしまった足は、
机の下から引き出すこともできないほどだった。
物語をぼくの前に展開させていくことの恐るべき苦労と喜び。
まるで水のなかを前進するような感じだった。
この夜のうちに何度もぼくは背中に全身の重みを感じた。
すべてのことが言われうるとき、
そのときすべての──最も奇抜なものであれ──着想のために
一つの大きな火が用意されており、
それらの着想はその火のなかで消滅し、そして蘇生するのだ。
窓の外が青くなっていった様子。
一台の馬車が通った。二人の男が橋を渡った。
二時に時計を見たのが最後だった。
女中が初めて控えの間を通って行ったとき、
ぼくは最後の文章を書き終えた。
電燈を消すと、もう白昼の明るさだった。
軽い心臓の痛み。疲れは真夜中に過ぎ去っていた。
妹たちの部屋へおそるおそる入ってゆく。朗読。
その前に女中に対して背伸びをして言う、
「ぼくは今まで書いていたんだ。」
人が寝なかったベッドの様子、まるでいま運びこまれたとでもいうような。
自分は小説を書くときには、
恥ずかしいほど低い段階の執筆態度をとっているという、
ぼくのこれまでの確信が、ここに確証された。
ただこういうふうにしてしか、
つまりただこのような状態でしか、
すなわち、肉体と魂とがこういうふうに完全に解放されるのでなければ、
ぼくは書くことはできないのだ」
ここに書いてあるように、
カフカは「判決」を妹たちに朗読していますが、
それ以外にも、
友人にも、そして朗読会でも、何度も朗読しています。
カフカは朗読がとても好きだったのです。
フェリーツェへの手紙でも、
朗読して聞かせたがっています。
さて、前置きが長くなりましたが、
カフカは朗読が好きで、
録音機を販売する恋人ができて、
その恋人に捧げる作品を書いて、
読んで聞かせたがっていたのです。
そして、2人は離れた場所に住んでいて、
なかなか会えませんでした。
(これはカフカが会いたがらなかったせいもあって、
それはついては別の話で、長くなるので省略します)
カフカ「判決」を朗読して、
フェリーツェがそれを録音した、
ということがあったのではないか?
そういう憶測は以前からありました。
カフカはフェリーツェからもらった手紙をすべて処分しましたが、
フェリーツェのほうは、
カフカからもらった手紙などをすべて大切に保管していました。
別の男性と結婚した後も。
彼女はユダヤ人だったので、
その後、ナチスに追われて、命からがらアメリカに逃れるのですが、
そのときも、カフカからの膨大な手紙を、
かなりの荷物になったでしょうに、
アメリカまで抱えて行っています。
当時、カフカはまだ無名ですから、
作家の手紙だから、あるいは財産になるから保存したとは思えません。
愛情からでしょう。
その後、カフカがフェリーツェに送った手紙は、
『フェリーツェへの手紙』として刊行されました。
しかし、そのときは、パルログラフの円盤という話は出てきませんでした。
フェリーツェには、2人の子供がありました。
彼らはカリフォルニアに住んでいました。
その2人が亡くなってから、すでに何年も経っているようですが、
整理された遺品の中から、
今回、何枚ものパルログラフの円盤が発見され、
その多くは、営業用のものでしたが、
その中に、カフカが「判決」を朗読しているものがあったのです!
なぜカフカの声とわかったかと言うと、
朗読が終わった後に、カフカがフェリーツェに語りかけている声も、
少し入っているからのようです。
1916年7月に、
カフカとフェリーツェはマリエンバートで10日間をいっしょに過ごしています。
珍しく仲良く過ごせた10日間です。
そのときに、録音されたものではないかと、推測されています。
ゲーテが「マリエンバートの悲歌」を書き、
「去年マエリンバートで」という映画もある、
あのマリエンバートです。
円盤は、
サザビーズで競売にかけられることになりそうです。
以前、サザビーズで競売にかけられた、
カフカの『訴訟(審判詩)』の生原稿は、
2億5千万円で落札されました。
今回は、いったいどれほどの金額になることでしょう!
カフカがいったいどのように自作を朗読したのか、
沈鬱になのか、笑いながらなのか、
クールになのか、情熱的になのか、
いったいどんな声なのか、
そのすべてがついにわかろうとしています!
なお、そんな昔の円盤がちゃんと聴けるのか、という点については、
意外に問題がないようです。
蝋管レコードでさえ、デジタル音源化が進んでいます。
『シリンダー保存およびデジタル化プロジェクト』
ドイツなどの図書館が購入し、
デジタル音源として一般公開することを、
願うばかりです!
なお、詳しい情報はここに掲載されています。
http://de.wikipedia.org/wiki/Aprilscherz