カフカの「未完」について 未完だからこそ力がある物語形式が日本にも | 「絶望名人カフカ」頭木ブログ

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『絶望名人カフカの人生論』『絶望読書』『絶望図書館』、NHK『絶望名言』などの頭木弘樹(かしらぎ・ひろき)です。
文学紹介者です(文学を論じるのではなく、ただご紹介していきたいと思っています)。
本、映画、音楽、落語、昔話などについて書いていきます。

カフカの3つの長編小説
『失踪者(アメリカ)』『訴訟(審判)』『城』
すべて未完です。

そのことについて、
「読んでみようと思うんだけど、未完なんだよね……」
「未完のものを読む価値があるのか?」
「せっかく最後まで読んだのに、まさかの未完だった」
というような書き込みを
Twitterなどでよく見かけます。

たしかに、推理小説で、
肝心の謎解きの部分が書かれないまま未完とか、
そういうのは困りますね。

でも、推理小説でさえ、
たとえばアガサ・クリスティーの
『そして誰もなくなった』は、
「もし解決編がなくても、名作だ」
という評言を読んだ覚えがありますが、
たしかにその通りだろうと思います。

未完といっても、
いろいろな場合があります。

1)話を広げすぎて収拾がつかなくなって未完
連続ドラマや連載漫画などでは、
未完とまではいかなくても、
ちゃんと謎が解決していなかったり、
尻すぼみになってしまうことがあります。
途中で読者をひっぱるための、
たくさんの魅力的な謎や、登場人物や、展開を
盛り込みすぎたためです。

この未完はたしかにガッカリですが、
カフカの場合は、これとはちがいます。

2)連載打ち切りとか、著者にやる気がなくなった
これも読者としては辛いですね。
カフカの場合は、これともちがいます。

3)作者の死亡にみる未完
夏目漱石の『明暗』とかがそうですね。
これは読者としては、どう続きを書くつもりだったのか、
気になってしまいます。
『明暗』は別の人が続きを書いたりしていますね。

カフカの場合は、これともちがいます。

4)未完に美を見出している
ロダンという彫刻家は、
トルソ(頭や手足を欠いた胴体像)を
完結した作品として評価しています。
自分自身も、通常なら未完とみなされるような作品を、
完成品として作っています。

カフカの場合にも、
たしかに、未完の美があります。
ただ、カフカの場合は、
それをねらっていたわけではありません。

5)完成させたかったけれど、できなかった
カフカの場合は、これです。
そうなってしまう理由も、たくさんありうるでしょう。
時間がなかった、能力がなかった、邪魔が入った……。
カフカの場合は、どれもちがいます。

カフカはいつもすごい勢いで、
長編小説を書いていきます。
ところが、途中から、だんだん筆が進まなくなります。
そして、ついには書き進めることができなくなってしまいます。
まるで、バネを押していって、もうそれ以上は押せなくなってしまうように。

いつもそうなのです。
それはなぜなのか?

カフカの作品は、
そもそも完成するということがありえないのです。
いつまでも完結できないということほど、
カフカらしいことはありません。
それこそがカフカの素晴らしいところです。

ですから、未完であることは、
カフカの場合、
まったく欠点になっていません。
むしろ、魅力が増しています。

『明暗』のように、
誰か他の人が完結させたとしても、
決してその結末が、
カフカの読者に受け入れられることはないでしょう。
完結することで、むしろ台無しになってしまうはずだからです。

でも、未完であるということは、
やはり不可全であり、挫折なのではないのか?
カフカ自身もそう考えていたのではないかと思います。
だからこそ、焼き捨てるように遺言したわけで。
(3つの長編はすべて、焼くように遺言された原稿の中に含まれます)

でも、じつは、この日本に、
未完という形式であるからこそ、
花開いている物語
があります!

それは「落語」です。

落語というのは、落ちを言ったら、
そこで噺はお終いです。
落ちは、極端なことを言えば、シャレでいいわけで、
物語の途中で、シャレを言いさえすれば、
どこで終えてもいいのです。
(というのは言い過ぎではありますが)
とんでもなく自由な形式です。

もともとは落ちの部分の小話がもとで、
ふくらんでいったのが落語ですが、
その過程で、落ちは、
物語の終わり方としての
特殊な機能を持つようになっていき、
そのことによって、
落語は独自の発展を遂げました。
(というのは私の持論にすぎませんが)

とお話ししても、わかりにくいと思うので、
ひとつ例をあげましょう。

「故郷へ錦」
という落語です。

母一人、息子一人という家庭で、
その息子がわけのわからない病気になって寝込んでしまいます。
いろんなお医者に診せても、何の病気かわかりません。
ある名医が診て、
「これは何か心に思っていることがある。
 そのせいで病気になっている。
 このままでは死んでしまうが、
 その思っていることをかなえてやれば、治るであろう」
そこで、母親が問いただしますが、
息子はどうしても話そうとしません。

息子を小さいときからかわいがってくれていて、
息子のほうも慕っている、
親戚のおじさんが呼ばれます。
このおじさんになら、息子も心を開くだろうと。
「絶対にお母さんには言わないでください」
という約束で、息子はおじさんにようやく話を始めます。

じつは、自分の母親に恋わずらいしてしまったというのです。
こんなこと、とても人には言えないし、
願いがかなうはずもなく、
苦しくて苦しくて、病気になってしまい、
このまま死んでいこうと思う、
と打ち明けます。

聞いたおじさんがびっくりしてしまいました。
困って母親に話をすると、
母親もびっくりしますが、
一人息子の命にはかえられないので、
承知をします。
叔父さんはあわてて、帰って行きます。

母親はお風呂に入って、
身支度を整えて、
二階から息子が降りてくるのを待っています。
ところが、息子はなかなか降りてきません。

そこで、階段の下に言って、
「どうしたの? 降りてこないのかい?」と呼ぶと、
息子は、錦の上下(かみしも・江戸自体の正装)を着て、
階段を降りてきます。

母親がその姿にびっくりして、
「おまえ、その姿は!」と言うと、
息子が、
「『故郷に錦を飾る』と言いますから」

これが落ちで、この噺はこれで終わりです。
「いったいどうなってしまうのか!」と、
手に汗を握って聞いていたお客さんたちは、
シャレひとつで、放り出されます。

「続きは?」と言われても、
そもそも続きなんかないのです。

ここが落語が、
「くだらない」と怒られるところでもありますが、
私は、この「どこでも終えられる」という形式的な強みこそが、
落語の命だと思っています。

つまり、続きのない物語でも、
作ることができるのです。

完結しなくてもいいからこそ、
とても自由な展開が可能になるのです。
だから、他の形式の物語にはない面白さが、
落語にはあります。

私はそこが好きなのです。
いずれ、落語の本も書きたいと思っているくらいです。

ちょっと落語の話に入り込みすぎましたが、
カフカの場合も、
未完であることは、
決して欠点ではなく、
完結できない小説を創り出したところこそが、
カフカのスゴイところだと思うのです。

ですから、
未完ということで、マイナスに感じることなく、
ぜひカフカの長編も読んでみていただきたいと思います。
これだけのことを言うのに、
ずいぶん長くなりましたが(^^ゞ