謹んで年始のご挨拶を申し上げます。
私の心がひねくれているのかもしれませんが、
大晦日はとくに、
「勇気を与えたい」「勇気をもらった」
「元気を与えたい」「元気をもらった」
「復興」「立ち直る」
「未来を信じる」「自分を信じる」「みんなが信じてる」
「絶対大丈夫」「歩き出そう」
「心はひとつ」
といった言葉がたくさん使われたように思います。
どれも素晴らしい言葉で、
なんらケチをつける余地はありません。
ただ、こう連打されると、
なんだか妙な気持ちになってきます。
まだ立ち直れない人はどうなるのかと。
まだ悲しみのただ中にいるのに、
「きっと立ち直れる」「自分を信じて」「歩き出そう」
と言われたら、どうなるのか。
みんなが明るく未来を目指した気持ちで、
自分はまだぜんぜんそうなれないのに、
「心はひとつ」と言われてしまったら、
どうしたらいいのか?
新年を迎えて、
明るい方向に進み出そうという気運は、
ますます高まっていくでしょう。
そうなれる人たちにとっては、
それはとてもありがたいことです。
足をケガして自分ひとりでは歩けないけど、
歩き出したいと思っているとき、
肩を貸してくれる人がいれば、
これはとても嬉しいものです。
しかし、まだ歩き出す気持ちになれていなかったらどうでしょう?
親切に肩を差し出した人は、
それを断られて、
気を悪くします。
そして、いつまでも悲しんでいる相手に、
苛立ちを覚えるようになります。
そして、立ち直った人を賞賛することによって、
立ち直らない人を暗に非難するようになります。
じつは、こういう情景を病院でよく目にしました。
病気になった当初は、
周囲の人たちも心から同情して、親身に看護することが多いものです。
それでどんどんよくなっていくと、
病人も嬉しい、看護したほうもかいがあって嬉しい、
両方が喜んで、絆が深まって退院していきます。
めでたし、めでたしです。
ところが、
病気が長引いてきて、なかなかよくならない。
あるいは、よくなったと思ったら、また悪くなったりする。
これがストレスが原因の病気のように、
患者当人の気持ちもかなり関係している場合には、
だんだん看病している人たちの態度も変化してきます。
同情が苛立ちへと変化していって、
「もっと前向きな気持ちにならないのがいけない」
というようなポジティブ説教が出始めます。
「同じ病気でも、こんなに前向きな人がいる」
などと素敵な病人の話をしたりします。
でも、それは、
親は子供に偉人の伝記本を読ませて、
こういうふうに正しく生きなさい、と言うようなもので、
そうそうまねできるものではありません。
新年を迎えて、
立ち直っていこうとする人たちへの支援は、
さらに増していくでしょう。
そういう美談もどんどん報道されていくと思います。
その一方で、
まだ立ち直る気持ちになれない人たちに差しのべられる手が、
減っていくのではないか、
ポジティブになれという説教をされ始めてしまうのではないか、
それでも受け入れないと、
見ないふりをされ始めるのではないか、
それが気がかりです。
ただの考えすぎだといいのですが。
そういう次第で、
新年の最初からですが、
私としては、カフカのこの言葉を引用しておきたいと思います。
将来にむかって歩くことは、ぼくにはできません。
将来にむかってつまずくこと、これはできます。
いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです。