「カフカがこんな人だとは知らなかった」 | 「絶望名人カフカ」頭木ブログ

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『絶望名人カフカの人生論』『絶望読書』『絶望図書館』、NHK『絶望名言』などの頭木弘樹(かしらぎ・ひろき)です。
文学紹介者です(文学を論じるのではなく、ただご紹介していきたいと思っています)。
本、映画、音楽、落語、昔話などについて書いていきます。

このブログのPVはこれまで300くらいだったのですが、
昨日はいきなり600に倍増していました。
ラジオ放送の影響の大きさを、
そこでも感じました。

今までは、
自分の日記みたいなものでしたが、
今後は、
もっとカフカの話をしていきたいと思っています。


さて、取材のときに、
最初にまず言われることが多かったのは、

「カフカはこんな人だとは思いませんでした。
 この本を読んで、驚きました」

ということでした。

取材してくださった記者の方々は、
もちろんみなさん、カフカの名前はご存じですし、
小説を何冊か読んだことがあるという方が多かったです。
それでも、カフカがこういうネガティブな人だということは、
あまりご存じなかったようでした。

私にしてみると、少し意外でした。
カフカを知らない人はともかく、
少しでも知っている人なら、
カフカがネガティブなのは、
ある程度、わかっていることだと思っていました。

まあ、考えてみれば、
前にも書きましたように、
現在は、カフカの日記や手紙を翻訳で読むのは難しいですから、
どういう人なのか、知らないほうが当然なのですが。

カフカについては、
もっと聖人のようなイメージを持っておられた方が、
多かったようです。

これは親友のブロートが世間に植えつけようとしたイメージで、
彼の作戦が見事に成功していると言えます。
なにしろ、カフカの存在を世に知らしめたのは、ブロートなのですから、
彼のカフカ像がそのまま世に知られているのも、当然と言えば当然です。

カフカには聖人的なイメージがぴったりのところがあります。
酒もタバコもやらず、
肉もコーヒーも甘い物もあまり食べず、
野菜や木の実を、
それも少量だけしか口にしない。
女性をそばに寄せず、一生、独身。
やせていて、物静かで、やさしい。

まるで牧師さんのようですね。
でも、カフカは聖人だったから、そんなふうだったわけではありません。
たとえば、食べることについて、カフカはこんなふうに書いています。

 胃が丈夫だと感じさえすればいつでも、
 ムチャな食べ方をする自分を想像したくなる。
 古く硬いソーセージを噛みちぎり、機械のように咀嚼し、がむしゃらに飲み込む。
 厚いあばら肉を噛まずに口の中に押し込む。
 ぼくは不潔な食料品店を完全に空っぽにしてしまう。
 鰊やキュウリや、痛んで古くなって舌にピリッとくる食べ物で、腹をいっぱいにする。
(日記)

このわざわざ「不潔な食料品店」と言っているところがいいです。
私も病気で、絶食(栄養は中心静脈点滴で)を1カ月以上していたことがあるので、
この気持ちはすごくよくわかります。

ただ、カフカは病気で胃が弱かったわけではありません。
「病気になるかも」という心配が、
かえって彼の胃を弱らせてしまったのです。
心配さえしなければ、もともとは丈夫な胃であったようです。

健康について、くよくよ心配して、その結果、本当に胃が弱ってしまう。
そんな人だったのです。

これは、カフカのイメージを
聖人から、
ただの普通の人にひきずり落としてしまったのでしょうか?
深淵なるイメージを、
お茶の前感覚におとしめてしまったのでしょうか?

私はそうは思っていません。
カフカは「普通の人」どころか、
普通の人にあこがれ続けながら、
ついに普通の人になれなかった、
「普通以下の人」なのです。

そして、カフカは、
その極度の弱さによって、
ごく普通の日常の中で、
普通の人が感じないほどの絶望を感じました。
私はそこにとても魅力を感じますし、
聖人的な深淵さよりも、
はるかに深いものを感じるのです。

親の愚痴を言い、
会社の愚痴を言い、
食べ物の愚痴を言い、
不眠の愚痴を言い、
恋愛の愚痴を言い……
そういうカフカであるからこそ、
誰でも理解できますし、
共感できるところもあるでしょう。

カフカは決して難解ではなく、
何か知識がないと理解できないわけでもありません。
カフカの発見はすべて日常生活の中で行われています。
身に覚えのない人はいないはずなのです。

「日常文学」という言い方は、
なんだかすごくつまらなそうですが、
そういう読み方をされるべきだと思っています。

たとえば、『変身』にしても、
カフカは日記の中で、
自分は家族の中で毒虫のようなものだ、
ということを書いています。
こういうことを感じたことのある人は多いのではないでしょうか?

ある種、その感覚をそのまま書いたのが『変身』と言えるでしょう。
「この虫は何を象徴しているのだろう?」などと、
無理に象徴を読み取ろうとする必要はないのです。

誰だったか忘れましたが、ある作家が、
「私が小説にリンゴを書くと、批評家はそれをトマトだと言う。
 トマトを書けば、それをリンゴだと言う」
と書いていました。

ある日、虫に変身してしまうなんて、
普通に書いたら、
これはどうしたってホラーかSFかコメディです。
でも、そうなっていないから、それとは別だから、
カフカの『変身』は衝撃があります。

カフカは『変身』が出版されるときに、
出版社に対して、しつこいほど要求しています。
「決して虫の姿を表紙や挿絵に描かないように」と。
虫を実際に見せてしまえば、
それはやっぱりホラーかSFかコメディになってしまうからです。

話がズレますが、
カフカは「見せない」という効果をとても巧みに使っています。
よく「この小説は映画のように映像的だ」などと、
ほめ言葉して言われますが、
小説の本当の力は、見せたくないものは見せないですむ、
映像化できないものを描ける、
という点にあると思います。
これについては、また別の機会に書きたいと思います。

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